第017話:オルテンシア重装歩兵の突撃と、「石化防柵」の絶望
――ズズ、ズズズ……、ゴウ。
初夏の冷たい雨が雑木林を濡らし、立ち込める霧が視界を乳白色に染め上げる中、その地響きは急速に質量を増していた。
金属同士が擦れ合うカチャカチャという乾いた音と、泥水を無慈悲に踏み砕く無数の鉄靴の音。
「ハァ、ハァ、ハァ……っ! 全軍、雑木林の霧を抜けたぞ! これより一気に敵本陣の裏へと回り込み――」
漆黒の板金鎧に身を包んだオルテンシア王国別働隊の隊長、ヒルデ・フォン・クランツは、大剣を握りしめ、霧の彼方に広がるであろう無防備なゼーフェルト辺境伯本陣の背後を見据えようとした。
だが、次の瞬間。
ヒルデの言葉は、その喉の奥で氷のように凍りついた。
「な……に、これ、は……っ!?」
霧が風に引き裂かれた先に現れたのは、彼女が想定していた「守る価値もない無人の雑木林」でも、「怯えて震えるカカシのような徴募兵の姿」でもなかった。
整然と、あまりにも美しく幾何学的に配置された、二重・三重の強固な「防柵」の群れ――。
普通、戦場における急造の防柵といえば、その辺の立ち木を乱暴に切り倒し、先端を尖らせて泥の中に斜めに突き刺しただけの貧弱なものである。隙間からは泥水が噴き出し、支柱は自重で傾き、少し引っ張れば簡単に引き抜ける。
しかし、ヒルデの目の前に立ち塞がる構造物は、異様なほどに「ピカピカ」だった。
まっすぐに切り揃えられた太い丸太の支柱は、寸分の狂いもなく垂直に立ち並び、丸太と丸太の間は「トラス構造(力学的三角形)」を形成する斜めのブレース(補強材)によって、緻密にボルト締め(ロックピン固定)されている。
さらに不気味なのは、その防柵が立っている「足元」だった。
周囲の街道は馬の腹まで沈むほどの底なしの泥の海だというのに、この防柵の周囲だけは、ねっとりとしたココア色の粘土が一切存在しない。
細かな砕石と割栗石が美しく敷き詰められ、雨水は全て防柵の足元に掘られた「暗渠排水溝」へと音もなく吸い込まれている。そのため、防柵の根元の土壌は、濡れることすら許されないかのようにカチカチに乾燥し、不気味な灰色に変色して固まっていた。
「ば、馬鹿な……っ! なぜ、こんな無価値な国境の雑木林に、これほど大規模で精密な『陣地』が構築されているの!?」
ヒルデの背後に続くオルテンシア兵たちからも、一斉に動揺と驚愕のどよめきが沸き起こった。
「た、隊長……! あそこの防柵、隙間がありません! まるで石の壁です!」
「哨戒兵の報告には、こんなものは一言も……っ!」
当然である。ルディ・フォン・バウムガルトが「雨期を快適にサボり倒す」という極めて邪悪な私欲のために、現代土木工学の知識を総動員して作った「究極のホワイト職場」なのだから。
中世の粗雑なスカウト(斥候)が、高台の奥の雑木林に「こんな異常な防爆要塞」が稼働しているなどと夢にも思うはずがなかった。
だが、ヒルデはオルテンシア王国が誇る勇猛果敢な「黒鉄の百合」である。
これほどの地獄の強行軍(ブラック労働)を乗り越えて、ようやくたどり着いた奇襲ルートなのだ。今さら「驚いたので撤退します」などという選択肢は、彼女の辞書には存在しなかった。
「慌てるな! 敵の術中に陥るな!」
ヒルデは自らの動揺をかき消すように、凛烈な声で大剣を振り上げた。傍らに控える通信魔導兵に「拡声の術式」を展開させ、暴風雨と甲冑の激突音を切り裂いて、大軍の最後尾までブラック命令を響き渡らせた。
「これは泥縄式の急造防柵だ! 見かけ倒しの美しさに騙されるな! 根元の泥を見ろ、にわか作りの土など、雨水を吸ってぶよぶよに緩んでいるに決まっている! 我が重装歩兵五百の圧倒的な質量突撃と、後方から運んできた破城槌の一撃をもってすれば、このような木の柵など、一瞬で紙細工のように粉砕できる!!」
泥濘で運べない重い破城槌を、後方の宮廷魔導師団に「重量軽減魔術」を徹夜で維持させて強引に運ばせてきたのだ。
ヒルデの、力強い(しかし、物理法則を完全に見誤った)精神論による大号令。
重装甲の鎧の内部で、不快な湿気と皮膚の擦れる痛みに耐えかねていた兵士たちは、「これを壊せば終わりだ」という極限の生存本能に突き動かされ、狂ったように吠えた。
「突撃ィィィッ!! 聖女様のために!」「防柵を叩き壊せっ!!」
ガシャガシャと不気味な鉄の音を立て、一千五百の軍勢の先頭に立つ「鋼鉄の塊」――全身金属鎧で固めた重装歩兵五百名が、泥を蹴り上げ、盾を構えて一斉に防柵へと猛然と突進した。
その後方からは、十数名の兵が抱えた、巨大な丸太の先端に鉄頭を取り付けた「破城槌」が、振り子のように勢いよく突っ込んでいく。
――その突撃を、防爆土塁の裏に設けられた「観測スリット(安全監視所)」から冷徹に見つめる瞳があった。
「……ハァ。やっぱり来た。ヘルメットも被らず、安全帯も付けずに、時速四十キロメートルで突撃してくる危険な重機械(重装歩兵)の群れだ」
ルディは、等温線が真っ赤に渦巻く【ガス・温度検知】のサーモグラフィ視界を睨みながら、深いため息をついた。
彼の目には、突っ込んでくる敵兵は「勇敢な戦士」などではなく、「安全対策を無視して猛スピードで暴走する、制御不能なフォークリフトの群れ」にしか見えていなかった。
「ハンス、防柵の構造強度は大丈夫だな?」
「ははっ! 若君!」
老騎士ハンスは、ハイブリッドベストを誇らしく胸を張り、不敵な笑みを浮かべた。
「我が若君が【土壌安定】を施し、さらに消石灰と粘土をブレンドした『土質安定処理(ソイルセメント工法)』によって石化させた根元は、もはやこの大地のプレート(基盤岩)そのものと完全に一体化しております! さらに、荷重を分散させるトラスの梁は、物理の神が定めた『絶対的な応力分散』の法則に従っている。突っ込んできた愚か者どもが、どうなるか……クク、見ものでございますな!」
「よし、全員、衝撃に備えろ(コンプレッション・ブレス)! 衝撃と同時に発生する『金属破裂音(音響ハザード)』に備えろ! 支給した『蜜蝋を染み込ませた綿の耳栓』を装着しろ! ロベルト分遣隊! 目の前の光景を見るな、目を伏せろ! お前たちはもう、あの狂ったブラック現場の住人じゃない。俺の完璧な『ホワイト(安全)』の傘の中にいるんだ!」
ルディが耳を塞ぎ、防爆壁の陰に身を縮めた、その瞬間だった。
――オオオオオオオッ!!!
凄まじい雄叫びとともに、オルテンシアの重装歩兵たちの第一波が、そして鉄の破城槌が、バウムガルト隊の第一防柵へと激突した。
通常であれば、ここでメキメキと木が裂ける悲鳴が上がり、土砂が崩れ、柵が後ろへと倒れ込むはずだった。
しかし。
――バガァァァァァンッッッッ!!!!
雑木林の高台に響き渡ったのは、木製防柵に激突した音とは到底思えない、まるで「鋼鉄の巨人が、超巨大なオリハルコンの岩盤に、全速力で激突した」かのような、鼓膜を引き裂く乾いた金属破裂音だった。
「――が、ふッ!?」
突撃の先頭にいたオルテンシア重装歩兵の一人が、あり得ない衝撃に目を丸くし、血反吐を吐きながら虚空へと吹き飛んだ。
バウムガルト隊の防柵は、ピクリとも、ただの一ミリも動かなかった。
丸太の表面に刻まれたバウムガルトの家紋すら削れていない。
それどころか、ルディが【土壌安定】で分子レベルまで緊密に結合させ、コンクリート並みに硬化させた根元の土壌は、一千五百人の突撃による数十トンの物理エネルギーを、完璧なトラス構造によってすべて「地面(地球そのもの)」へと分散・吸収してしまったのだ。
物理学における「作用・反作用の法則」――。
行き場を失った凄まじい運動エネルギー(物理ハザード)は、すべて、突撃したオルテンシア重装歩兵たちの肉体へと、そのまま百%の力で跳ね返った。
「ぎゃああああああああっっ!?」
「腕が……、俺の肩がァァァッ!!」
凄惨な、そして間抜けな「自滅の労働災害(セルフ労災)」の光景が、防柵の前に広がった。
防柵に盾を構えて全力でぶつかった兵士たちは、自らの突撃の質量がそのまま衝撃となって自らの肩へと跳ね返り、肩関節をグシャリと亜脱臼・粉砕。鎖骨が皮膚を突き破って飛び出し、のたうち回った。
重いプレートキャリア(板金鎧)のデッドウェイトが仇となり、激突の瞬間に首の骨を折って、自重でそのまま泥の中に崩れ落ちる者もいた。
さらに悲惨だったのは、破城槌を抱えていた一団だった。
「お、重力を無視しているのか……っ!? び、ビクともしないぞ!!」
丸太の破城槌が防柵に激突した瞬間、その強大な反発力が抱え手たちの腕を伝って全身へと直撃。
バキバキバキッ! という生々しい骨折音が雨の音をかき消し、十数名の重装歩兵の腕の骨が文字通り「おがくず」のように粉砕された。彼らは破城槌の下敷きになりながら、泥の中で絶叫した。
「な……、な、何、これ……っ!? 嘘でしょう!?」
後方でそれを見ていたヒルデは、自らの瞳に映る光景が信じられず、大剣を握る手を小刻みに震わせた。
突撃したはずの精鋭歩兵たちが、ただ「柵にぶつかっただけ」で、勝手に血を吐いて、腕や肩を砕かれ、セルフ全損(戦闘不能)になって転がっているのだ。
「根元の土が、動いていない……!? 泥が、一粒も崩れていないなんて……! この柵の根元は、一体どうなっているの!? まるで大地の底から生えた、オリハルコンの杭じゃない……っ!」
ヒルデの肌に、冷たい戦慄が走る。
中世の戦闘において、防御陣地とは「壊れるのを前提に、時間を稼ぐもの」だった。だからこそ、彼女たちは「強行軍の疲労」を精神論でカバーし、力ずくで突破できると確信していた。
だが、この目の前にある構造物は、中世の土木技術のパラダイム(前提)を、その根底から嘲笑うかのように超越していた。
「ひ、怪物だ……! この林には、大地の魔神が住んでいるんだ!」
「押しても引くこともできない! 悪魔の壁だぁッ!!」
先頭集団のあまりにも無残で、物理法則に忠実な自滅ぶりに、後方のオルテンシア兵たちに強烈な「パニック(心理的ハザード)」が急速に伝染し始める。
どれほど頑丈な鋼の甲冑を着ていようとも、ぶつかっただけで自分の骨を粉砕する「動かない壁」を前にして、突撃を繰り返せるほど彼らは狂ってはいない。
「……よし、物理的ハザードによる、第一波のモーションエネルギー(運動エネルギー)の減衰を確認。手順通り、完璧に不安全行動のエネルギーを中和したな」
防爆壁のスリットからその様子を観察していたルディは、冷徹に胸の中で(ヨシッ)とポーズを取った。
「激突の直前に重量軽減魔術を解除し、本来の数トンの質量に戻して衝撃力を最大化する算段だったようだが……防柵がミリ単位すら動かないため、その全質量(反作用)が抱え手たちの腕にモロに逆流したな。アホすぎるセルフ労災だ。だが、バカどもが自滅するのは勝手だが、これ以上防柵の前に『鉄屑(死体の山)』が積み上がれば、それがスロープになって後続の侵入ハザードを生む。……これ以上の物理突撃(ゴミの堆積)は防がなければならないな」
ルディにとって、彼らの突撃は「自然災害」と同じ、ただの物理現象だ。
あらかじめ衝撃力を計算し、トラス構造とセメント硬化でアース(逃がして)しておけば、自分たちは槍一本振るうことなく、安全に敵の戦闘力を「完全無力化(自滅)」させることができる。
「部下を泥水の中で使い捨てにし、動けなくなった者を『名誉ある生贄』などと呼んで平気で見捨てる、最悪のブラック現場監督め。あんな女指揮官の下で働く作業員(兵士)が哀れだ。俺が、あの女の狂った精神論を、後で捕まえて天幕に引きずり込み、俺の電気で脳髄から書き換え、コンプライアンス(ホワイトな労働環境の快適さ)をたっぷりと叩き込んでやる」
ルディは、冷たい雨の中で震えながらも、なおも「突撃せよ!」と部下に狂信的な命令を繰り返そうとしているヒルデのサーモグラフィ(熱源)を見つめ、その細い腰から太ももにかけての美しいラインを、獲物を定める安全管理者の目で、じっとりと見定めた。
「さて……。障害物の強度は実証された。次は、違法操業(敵の魔法詠唱)の『強制遮断』プロセスへと移行する。――エルザ、準備はいいな?」
「はい……っ、ルディ様。いつでも……、あなた様の、お指示の通りに……っ」
防爆土塁の特設熱線砲座から、特注の撥水防炎ダウンマントを羽織り、過熱する炉心の熱を逃がすために胸元を少し緩めたエルザが応える。彼女はルディから与えられた、蝋引きで耐水加工された「火気使用安全手順書」を大切に抱きしめ、全身を極上の期待の熱で火照らせながら、蕩けた瞳で彼を見つめていた。
「私の魔力炉が、あなた様の安全基準に従って、心地よく……そして熱く疼いておりますわ……っ」
彼女の指先には、妖艶な、しかし世界で最も精密に制御された「青い死の光」が宿り、獲物(敵の宮廷魔導師団)を見据えている。
オルテンシア軍のブラック突撃、不安全行動による自滅、完全ヨシ。
不落のホワイト要塞の真の「わからせ(調律)」は、まさにここから執行されようとしていた。
――バウムガルト隊のハザード中和能力:石化トラス防柵の応力分散、効果絶大、ヨシ!




