第9話:月より近い、触れられない羽があるのだ
ねえ、みんな。
「近いから届く」って、つい思ってしまうこと、あるよね。
でも、人の心って、身分や距離だけで測れるものじゃないのだ。
手を伸ばせば触れられる場所にいるのに、決してこちらへ渡ってこない人もいる。
空蝉さんは、そういう人だったのだ。
第8話の「雨夜の品定め」で、現実を生きる女の人たちの生々しさに毒されちゃった源氏くん。
そんな彼の前に現れたのが、紀伊守の屋敷に身を寄せていた空蝉さんだった。
彼女は、藤壺さまみたいな雲の上の存在じゃない。
でも、だからこそ手が届きそうで……そして、誰よりも遠い人だったのだ。
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方違え(ほうたがえ)のために訪れた屋敷は、宮中とは比べものにならないくらい、素朴で、生活の匂いがした。
板敷きがキシキシ鳴る音、遠くで鳴く虫の声、夜具の重たい湿度。
第8話で「ニンニクの匂い」に驚いた源氏くんにとって、この屋敷に満ちている「人が暮らしている気配」は、ひどく生々しく、好奇心をそそるものだったのだ。
そこで源氏くんは、偶然を装って、女たちが集まる部屋を覗き見てしまう。
そこにいたのは、決して派手ではないけれど、どこか凛とした佇まいの女性。
彼女が空蝉。地方官の妻として、自分の身分をわきまえ、静かに、でもどこか冷めた目をして生きている人。
宮中の女たちが源氏くんの光に目を細める中で、彼女だけは、その光が自分たちを焼き尽くす「災い」であることを知っているみたいに見えた。
その夜、源氏くんの歪んだ執着が、ついに火を吹いてしまう。
みんなが寝静まった深夜。彼は、あろうことか空蝉さんの寝所へ忍び込んだのだ。
「……源氏くん、それはダメなのだ」
つむぎは、声を大にして言いたい。
どれだけ美しくても。どれだけ恋に苦しんでいても。
相手が望んでいない場所へ踏み込んだら、その瞬間、恋は相手を怖がらせる「侵入」になる。
雅な言葉で飾っても、相手の生活と心を無視したその行いは、決して許されることじゃないのだ。
暗闇の中、衣擦れの音だけが響く。
源氏くんの手が、ついに空蝉さんの肩に触れた。
彼女は、凍りついたように震えていた。でも、その震えはただの怯えじゃなかった。
「怖い。でも、流されてはいけない」
ここで一度うなずけば、自分の生活も、誇りも、明日からの自分自身も、全部源氏くんの強引な物語に飲み込まれてしまう。
だから彼女は、震えながらも、真っ向から彼を拒んだのだ。
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「……おやめください。私のような身分の者が、あなた様のようなお方と関わっても、後には何も残りません」
空蝉さんの言葉は、氷のように冷たくて、そして切実だった。
彼女にとって、源氏くんの寵愛は「救い」なんかじゃない。
自分の穏やかな生活を壊し、最後には捨てられるだけの「毒」でしかなかった。
第1話で、パパ上の愛が更衣さんを壊してしまったように、源氏くんの愛もまた、空蝉さんにとっては破滅の足音に聞こえていたのかもしれない。
源氏くんは、戸惑ったと思う。
今まで、誰もが彼の光に跪いてきた。彼が望めば、すべてが手に入ると思っていた。
でも、空蝉さんは違ったのだ。
彼女の体はそこにあるのに、その魂は、蝉の羽みたいに薄く、鋭く、源氏くんの指をすり抜けていく。
第3話で空を掴んでいたあの子の手が、今、確かに「人間」に触れているはずなのに。
掴めば掴むほど、彼女の心が遠ざかっていく。
「こんなに近くにいるのに、どうして触れられないんだ……」
夜が明ける頃、源氏くんは一人、敗北感に似た熱を抱えて屋敷を後にする。
空蝉さんは、まるで最初からそこに誰もいなかったみたいに、静かに身を隠してしまった。
みんなは、光る君が誰をも虜にすると信じている。
でも、つむぎには見えるんだ。
空蝉さんという「自分の物語を守る人」を前にして、源氏くんの光が、泥臭い独占欲に染まっていくのが。
光る君、君はついに「本気で逃げる人」に出会っちゃったんだね。
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つむぎのあとがき
……源氏くん、ついにやっちゃった。
忍び込みとか、もう見てるこっちがハラハラ……というか、ハッキリ言ってアウトなのだ!
でも、空蝉さんのあの「冷たい拒絶」、つむぎはすごく大事なことだと思った。
光る君に望まれることは、周りから見れば夢みたいなことかもしれない。
でも本人にとっては、自分の生活を壊す災いかもしれない。
誰かにとっての祝福が、別の誰かにとっては恐怖になる。
そこを見落とした瞬間、恋は一気に危ういものになっちゃうんだね。
源氏くん、振られてショックかと思いきや、届かない事実がかえって彼を熱くさせているみたい。
「手に入らないものほど欲しくなる」っていう、一番厄介な泥沼。
次回、空蝉編のクライマックス。
彼女が残した「抜け殻」をめぐって、物語はさらに加速するのだ。
それじゃあ、また次の夜に。バイバイなのだ!




