076. 薔薇の香り
ミネルヴァからの依頼も、宮殿での授与式も終えたシノン達。王都は赤竜の討伐の知らせを受けてからお祭り騒ぎであったらしく、授与式が行われたこの日はより一層盛り上がっていたとのこと。
しばらくの間城下へ降りていなかったシノンは、宿への戻り道、あまりにも混雑している広場に驚いている様子だった。宮殿の前には、英雄の顔を一目拝もうと人混みが出来ていて、別の出口から宮殿を出発して良かったと、皓月千里の皆が思っていた。
シノンは収納術によってブローチも月桂冠もしまっていたため、街を歩いても特に目立つことはなかった。
「ふう、お疲れ様、シノン」
「……」
宿の部屋に戻って一息つくシノンとアルファ。ルミナ達は隣の部屋に泊まっているためこの場にはいないが、汗もかいたので入浴すると話していたため、今は隣の部屋にもいないだろう。
アルファからの言葉に返事をしなかったシノン。違和感を感じたアルファは、シノンの方を振り向く。
「シノン?」
振り向いた瞬間、首筋に冷たい金属の感触が当たっていた。それはシノンの短剣であり、普段から収納術でしまうことなく、腰に帯剣しているものだ。
「あんたは誰だ?」
「え、シノン、何を言って…?」
ぐぐ…と短剣を首筋に押し付けられる感触がする。あと少し力を入れられれば、皮膚を突き破って赤い体液を流すことになるだろう。
「し、シノン、ちょっと待ってくれ」
「アルファは香水をつけない。こんなにも強い薔薇の香りを漂わせておいて、まだしらを切るつもりか?」
「え…? 薔薇…?」
心当たりがあるようでないような、妙な感覚に陥ったアルファ。突如、酔って吐き気がするほどの薔薇の香りが屋内に充満する。
ハッとしたシノンはすぐに窓を開け、風魔法を用いてその薔薇の香りを外へ逃がす。香りは薄まったが、それでもまだこの部屋に染みついている香りが残っている。
「シノン、俺は、おれ、は…」
「喋らなくていい。話は後で聞くから、まずは呪いの解除を」
「呪い…?」
意識が朦朧としてきたアルファ。シノンによって椅子に座らされ、ただされるがままじっとしていた。
「…庶民が使う民間魔法か、家系に受け継がれる継承魔法か、あるいは呪術の類か…どれだ、必ず解呪方法はあるはず…」
アルファの胸の前に小さな魔法陣が展開され、シノンは小さく呟きながらなにかしらの作業を行う。アルファはそれを茫然と眺めており、心ここにあらずといった様子だ。
シノンは空中に浮かぶ魔法陣から風を出す魔術を維持しつつ、アルファの体内に感じる別の魔力を探る。「それ」は決してアルファに対して友好的なものではなく、すぐにでも取り除かなければならないものだった。
「赤い…これは何だ…? 薔薇の紋章…」
目を閉じ、魔覚と呼ばれる感覚のみで探るシノン。魔覚はルデアに教わった魔力感知の技術を学ぶことで生まれ、育つ。扱いに慣れてくると視覚や聴覚のように、意識しなくても感じ取れるようになる感覚である。
シノンは意識を魔覚のみに集中させ、アルファの体内にある異物を取り除くことに集中していた。
「…! こいつ、生きてる…のか?」
薔薇のような模様をしている赤い魔力。シノンがそれに触れながら取り除こうとすると、その模様は生き物のように蠢いた。
人間の魔力とは、個人によって全く異なる波長を持つ。それは指紋や耳紋といった、個人によって異なる特徴を持つ構造と同じものだ。魔法使いによっては、探知魔法で感じられる魔力の波長を覚えることができる者もいる。
そしてシノンも、魔力に関して敏感な体質を持っている人間だ。アルファの体内に埋め込まれているこの赤い魔力には、なんとなく、覚えがある。
「…たしか、友情のなんとかのところにいた…赤い髪の女か…?」
シノンは、二週間ほど前に出会ったルフスという男のパーティにいた、赤髪の女の存在を思い出す。
シノンの脳内に彼女の印象が残っていたのも当然だ。何故なら、戦いが始まる前からルフスの戦いが不利になるにつれて、異常なほどの殺気をシノンへと向けて来ていたから。シノンは常にロゼッタを警戒しながら戦っていたくらいだ。
アルファが少し苦しそうに呻いている。風邪を引いて熱を出すのと同じように、体内に異物が取り込まれたことで拒否反応を起こしているのだろう。
シノンは解析を急ぎ、薔薇の模様をした赤い魔力を取り除いた。薔薇の模様は苦しそうに悶え、やがて完全に消えて行った。シノンは小さく息を吐くと、アルファの体内を隅々まで調べ、他に異物が残っていないことを確認する。
「…え、シノン…? 何をしているんだ?」
「おはよう、アルファ」
意識を取り戻したアルファが、不思議そうな顔をしながらシノンに声をかける。薔薇の香りもすっかり消え、残りは部屋の壁や床や、ベッドなどに染みついてしまったもののみが残った。
「あれ、今日も休みなのか? あれからまだ数日しか経っていないのに…」
「…? 何を言って…?」
シノンは首を傾げた。顔出しをしようと決めたはいいものの、現実はそう甘くはなく、結局友愛の剣とのトラブルがあってからは様子を見に来ることが出来ていなかった。かわりに、宿屋へ手紙を送ってやり取りをすることで、近況を確認していたのだ。
特に変わった様子はなかったように思えたのに、実際宮殿で再会してみればアルファからは強烈な薔薇の香りが漂って来ていた。ルミナ達は気がつかなかったのだろうか? とも思ったものの、どうやら他の人間も、アルファから漂う薔薇の香りには気がつかなかったらしい。
「…アルファ、もしかして記憶がないのか…?」
「なんの?」
「今日はどこで何をしていたか、覚えているか」
「…えっと、あれ? 何してたんだっけ…?」
アルファは頭を掻きながらそう言っていた。まばたきをし、落ち着かない様子で周囲を見回したりしていた。シノンは小さく息を吐くと、フードをそっと外しながら言葉を発した。
「アルファ、落ち着いて。友情のなんとかの一件からは、もう二週間くらい経っている。その翌日、赤竜が王都に来たのは覚えているか?」
「あ、ああ…なんとなく覚えている。宮殿で倒されたようだった…」
「あれをやったのは俺なんだよ。だから、今日は全王からその勲章をもらいに宮殿に行ったんだ」
「…え、えぇ!?」
アルファは驚いてしまい、思わず声を張り上げた。シノンは口に指を当てる動作をし、アルファもはっとして口を手で塞ぐ。現在は日付が変わる直前くらいの時間帯だ。人によっては、とっくに床に入っている。大声で騒いでしまうのは非常に迷惑な行為であると言えるためだ。
「…ちょっと待ってくれ、状況が…俺は何をしていたんだ? 確か、ルミナを休ませて、しばらくは一人で依頼に出てて…それから…」
「…アルファ、薔薇の香りに心当たりはないか?」
「え? 薔薇の香り…?」
アルファは、シノンに指摘された薔薇の香りについて何かを思い出そうとする。心当たりがあるような、ないような、しかし全くないかと言われるとそうでもない。最近、吐きそうなほど強烈な花の香りをかいだ気がする。
「…待ってくれ、夢だと思っていたんだけど、冒険者ギルドでロゼッタっていう女をよく見かけてた…」
「ロゼッタ?」
「ほら、友愛の剣のサブリーダーだよ。赤い髪で、剣士の…」
「ああ、なるほど」
シノンは思い出したように相槌を打つ。名前で認識していなかったため思い出すのに時間はかかったが、印象には残っていたのですぐに思い出すことができた。
「そいつがどうかしたのか?」
「…毎日、シノンを訪ねて俺に話しかけて来ていたんだ。断っていたんだけど、毎日勝手に依頼先にも着いて来たりして…」
「……」
シノンは不愉快そうに眉を顰めていた。普段は表情の変化など読み取れないシノンの表情が、見てわかるほど歪んでいるのがわかったアルファ。少々驚いて言葉が詰まるが、すぐに気を取り直して続きを話す。
「えっと、どうだろう…ここ数日、何かをして過ごしていた記憶はおぼろげにあるんだ…ただ、暗い水の中を歩いていたような感覚で、ほとんど何も覚えていないんだ…」
「…アルファ、落ち着いて聞いてほしい」
「ん?」
何かを考え込んでいた様子のシノンは、いつも通りの表情に戻ってアルファに話しかけた。
「アルファ、お前はついさっきまで、呪いを受けてた」
「え?」
全く想定していなかったシノンのその言葉に、間の抜けたアルファの声が、屋内でこだました。




