053. 水の神の御伽噺
深い、深い海の底に落ちているような感覚。しかし苦しくはなく恐怖もない、むしろ故郷のような安心感さえ覚える。そこに太陽の光はほとんどなく、あるのはおぼろげな青い月の光だけ。
沈みゆく自身の背には存在しないはずの純白の翼があり、しかし透けていてほとんど見えない。だが、違和感はなかった。
自分は何故ここにいて、何故海の底へ沈んでいるのか、どうでも良いと考えるほど馴染み深い感覚だった。ただ身を任せて、ゆっくりと暗闇へ沈んで行った。
「…―――」
「…?」
誰かの声が聞こえた気がした。しかしその声は小さくぼやけていて、男女の区別もできず、言葉を聞きとることもままならない。
その声が聞こえた直後、小さく、遠くから、何者かの咆哮が聞こえた。人間のものではない、巨大な獣のような声だったような気がする。だが、自身には関係のないことなのだと、今は警戒する必要がないのだと、再び目を閉じた。
冷たく静かな深海は、どこよりも安心できる、自身が生まれた場所を想起させる。複雑なことは考えなくて良い。ただ海に自身を預け、流れに身を任せるだけで良い。
背にあった翼は時間経過とともに消え失せ、光の粒となって散ってしまう。本来あるべき姿に戻ったはずなのに、何故か、言葉にできない不安と焦燥に駆られるような感覚に陥ってしまった。しかし、自身にできることはない。ただただ、深い海の底に沈むまで、身を任せることしかできない。
おぼろげだった青い月の光さえも見えなくなった頃になって、そこからの記憶は途切れた。
*
「こんにちは、シノン様。わたくしの依頼を受けて下さって、ありがとうございます」
「よろしくお願いします」
翌日の午前、ミネルヴァとの約束の時間前に学園を訪れたシノン。ルデアとの共同研究の話もあったので、今回の契約期間中は宿から学園に通うのではなく、特別に用意された客室に宿泊することとなった。急な話であったにも関わらず学園側は常に客室や寮を整えていたため、問題はなかったらしい。
シノンはミネルヴァが用意した契約書にサインし、前金である金貨一枚を受け取る。
「これで契約は完了です。それでは、早速本題に入りましょうか」
にこり、と穏やかな笑みを浮かべるミネルヴァ。
契約内容としておおまかに、リリーズ王国に滞在する一ヶ月の間、三日に一度、一時間ほどの対面でシノンが見聞きした水の神の伝説をミネルヴァに語って聞かせる。これはミネルヴァ自身が多忙であることや、シノン自身の負担などを考慮した結果である。
そしてこの一か月の契約が満了した後も半永久的にこの契約は続行とし、一ヶ月に一度契約金がシノンに支払われる。シノンは新たに訪れた国やそこで新たに見聞きした水の神の伝説を、冒険者ギルドの通信用魔水晶を通して報告しなければならない。
これはミネルヴァの大事な研究テーマであり、論文や本の出版などが行われる際には、提供元としてシノンの名が刻まれる。ただし、シノンは本名を公開することを渋っており、一か月の契約満了時までに偽名を考えておくことを約束していた。故に、現在契約書に書かれている提供元として記載される名前は空欄のままだ。
「まず、シノン様はどこまで情報をお持ちでしょうか。お恥ずかしながら、わたくしは若い頃にコペル王国へ留学して以来、海外へ渡航した経験がございません。当然のことではございますが、リリーズ王国での伝承は、全て頭に入っております。コペル王国では、商業の神や工業の神、そして農耕の神が信仰されていることくらいしか存じ上げないのです」
「俺が行ったことのある国は、ロウほど多くはありません。ただ、北方諸国やコペル王国、砂漠、レラン王国と騎士王国スフィン、それとリリーズ王国、ラトス帝国の話くらいは知っています」
「あら、想像していたよりも多くございますのね」
ミネルヴァは珍しく、目を軽くではあるが見開きながらそう答える。シノンは成人したばかりでありながら、多くの国を渡り歩いているようだ。それこそ、人生の半分以上は旅に費やしているといっても過言ではない。
「…ロウから聞いただけの話でよろしければ、ダンジル王国、リンク王国、ジガム王国、秀亀の話も知っています」
「全て聞かせてください。一つ一つ、お伺いいたします」
ミネルヴァは両手を合わせながら答えた。思っていたよりも研究の進捗は捗りそうで、シノンを選んで良かったと、心からの喜びを表しながら。
「では、まずはコペル王国からお伺いしたいと思っています。先ほど申し上げた通り、わたくしはコペル王国に留学したことがございますが、詳細は存じ上げないのです。コペル王国で囁かれる伝説は、どのようなものなのでしょう?」
「…これを」
シノンは、腰に携帯していたポーチから、一冊の本を取り出した。本のタイトルから、それはコペル王国の神話や伝説に関して…特に、水の神が成し遂げたことが書かれている本であることがわかる。
「貴重なものをお持ちなのですね。少々、お借りしても?」
「どうぞ」
口で語って聞かせることもできる。本来、シノンの仕事は口頭でミネルヴァに物語を聞かせることだ。しかし敢えて自身が所有する本を持って来たのは、その方が依頼の報酬に見合う情報量を短時間でミネルヴァに渡すことができるからだ。
ミネルヴァは学者であり、数えきれないほどの文字を読んできた人物だ。文字を読むこと自体はそこまで時間や負担がかかることではなく、シノンが慣れないことをするよりも圧倒的な量の情報を渡し、且つ価値も一定以上存在させることができる。
とはいえ、シノンのこれは賭けでもあった。本は貴重で海外の本はほとんど輸送できないが、ここは蔵書数世界最大級の王立学園だ。リリーズ王国の図書館や本屋に、これと同じ本がないとは限らなかった。だがミネルヴァの反応を見る限り、彼女も目にしたことがないタイトルだったのだろう。シノンは心の中で、ほっと息を吐く。
「…貴重なものをお貸し頂き、ありがとうございます。わたくしも拝見したことのない本で、とても興味の惹かれる内容でした。もしよろしければ、次回までお借りしてもよろしいでしょうか?」
「はい」
「ありがとうございます。本日は、もう時間ですね」
「学長せんせー、失礼しまーす。シノン連れてってもいい?」
研究室の扉がノックされ、ルデアが入って来た。時間丁度にやってきたルデアは、ミネルヴァに確認を取ってからシノンを連れて行く許可を取る。
「はい。わたくしはこの後も予定がございますので、このまま失礼いたします。それではシノン様、また三日後に」
「失礼します」
ソファから立ち上がり、頭を下げるシノン。初日であることもあり、今回は案内も兼ねてルデアが迎えに来たのだった。
ルデアの案内で廊下を歩き、庭を歩き、魔法科の棟へやって来た。
「学長せんせーとの面会がない日は、寮から直接ここに来ることになるだろ? 明日の朝、また迎えに行ってやる」
「ありがとう」
ルデアと対等に話す、フードを被った部外者と思われる人間がいるため、すれ違う学生からは度々注目されていた。しかし、学園では鬼教師として恐れられているルデアの客人に話しかける勇気は生徒たちにはなく、ただ遠目に見ていることしかできない。
「そだ、魔法科の授業がある時間は、オレの講義を見に来てもいい。学長せんせーに言って、通行証を作ってやるから」
「…それは、いいのか…?」
「もちろん。あんたにオレの持つ知識を全てやるって言ったろ。世界一の魔法学講義を見て行きな」
歯を見せて笑うルデア。相変わらず自信で満ち溢れていて、自然とついて行きたくなるような、不思議なオーラを持っていた。シノンも珍しく表情筋を緩め、小さく笑っていた。




