042. ミナー半島
シノンは夢を見ていた。ハマナがこの世界に来る前、彼が生まれ育った世界の夢だ。彼からは、強烈な不安と恐怖を感じる。
望まない異世界でたった一人取り残され、生まれてから一度も晒されることのなかったはずの命の危機、慣れない魔物の脅威…どれほど心細く、不安で、怖くて、我慢を重ねてきたことだろう。
家族にも友人にも恵まれ、幸せな人生を歩むはずだった彼の人生は、全く知らない異世界の崩壊を救うために呼ばれた存在となったことで壊れてしまった。
フッ、と目を開けた。壁に背を預けて眠っていたシノンの頬には、一筋の涙が流れていた。顔を上げ、宿の部屋内の様子を見渡す。
ハマナが眠っているベッドの掛布団は丸く盛り上がり、小さく魘されているかのような声が聞こえる。彼の恐怖、悲哀、不安などといった強い感情が伝わってくる。
遠く、手が届くことのない故郷を離れ、たった一人落とされ、あげく命を落としかけた。たった十歳前後の子供が、そのような苦痛に耐えられるはずもない。
「……」
シノンは無言で、頬に着いた涙の痕を拭う。ゆっくりと立ち上がり、洗面台へと向かっていった。顔を洗い、武器の手入れをし、夜明け前のランニングをこなすため外に出る。全身の傷はまだ痛むので、軽く走ったらすぐに宿へ戻った。
戻った頃にはアルファも起きていて、ちょうどハマナを起こすところだった。
「おはよう、シノン。どこかへ行っていたのか?」
「日課」
「…まさか、走ってきたのか? その怪我で?」
「うん」
アルファはシノンに対し、呆れたような視線を向ける。ただでさえ本来なら静養しなければならないのを無理なスケジュールで仕事しているというのに、日課だからといって余計に体を動かすのは…と、開いた口が塞がらない様子だった。
「今はそんなことしなくていい。傷が開いたりしたら、どうする?」
「調整はしてる…」
「はあ…」
アルファはため息を吐く。シノンが自分の言葉を聞いてくれるとは思わなかったし、実際大丈夫なんだろうと、信頼の感情も寄せていた。
「とにかく、無理だけはしないでくれ」
「わかってる」
短く会話をし、ハマナを起こしたアルファは、ハマナに身支度をするよう頼んだ。
「…ハマナ?」
「……」
ハマナはベッドから起き上がったが、それ以上動かなくなってしまった。布団をぎゅっと握りしめ、小さく全身が震えていた。
「ハマナ、大丈夫か?」
「あっ…はい…」
「ほら、支度をして朝食を食べに行こう」
「…あの、今日、ここを出る、んですよね…?」
アルファが優しく声をかけると、ハマナは恐る恐るといった様子で質問を返してきた。その目には強い恐怖と緊張が宿っており、それを見たアルファは動揺を隠せなかった。
「…ああ、できるだけ早く、君をリリーズ王国へ送り届けなければならないからね」
「ぼ、僕…外に、出たく…ないです…」
ハマナは震える声で、小さく、しかしはっきりと主張した。彼がこのように主張するのは、当然の流れだ。シノンがいなければ、ハマナは間違いなく命を奪われていた。
息を吹き返したとはいえ、ハマナは命を落とす寸前の恐怖を体験した。まだ子供のハマナが、だ。
シノンはそんなハマナの様子を見て、このままではトラウマになってしまう…それどころか、すでにトラウマになっている可能性があると考えていた。
皇都・ナビールでこのまま過ごしていて、それが必ずしもずっと安全とは限らない。いつか噂は広まり、その噂があの姉弟の耳に届いたとき、皇都であろうと関係なく、再びハマナの命を奪いに来ることだろう。何よりも、ハマナのリリーズ王国への護送依頼は、冒険者ギルド総本部、ひいては全王王国リリーズの統治者である全王からの最重要依頼だ。
トラウマだからと言ってこのまま皇都に残ることは、ハマナのわがままでしかなくなってしまうのだ。
「…リリーズ王国には、四大公爵家という存在がある。彼らのいるリリーズ王国なら、ここに留まっているよりもずっと安全だ」
シノンは、淡白だが普段よりずっと柔らかい口調で、ハマナにそう語りかける。
実際、リリーズ王国は世界的な大国であり、公爵家や騎士団の力は絶大である。それこそ、世界規模で見ても最強と名高い実力者揃いの国であると皆が認めるほどの軍事力さえ有している。正真正銘、世界で最も安全な国といえるだろう。
「旅の途中は、俺がいる限り、ハマナを死なせることは決してないと約束する」
「……」
ハマナはまだ、怯えた表情のままだった。しかし、心臓を貫かれたにも関わらず自分が生きているのは、シノンによって救われたからだと理解している。ハマナは少し考える様子を見せた後、覚悟を決めたかのように頷いた。
手の震えは止まらなかったものの、シノンやアルファたちが自分を守ってくれたこと、そしてこれまでの旅で自分に良くしてくれた人たちを困らせないために、ハマナはリリーズ王国に着くまで頑張ると心に決めたのだった。
旅の支度をし、荷物をまとめ、朝食を済ませ、予約していた貸し馬車を取りにアルファが向かっていった。
「ハマナ、もう少し頑張ろう」
「はい…っ!」
緊張した面持ちで馬車を待つハマナに、ルミナが優しく声をかける。
臆病な性格であるハマナを無理に外へ連れ出しているような気がして申し訳なく感じるルミナだったが、必ず完遂しなければならない仕事であることも理解していた。
Cランク冒険者となり一人前にはなったが、冒険者としての経験はまだ浅く、ルミナにはまだ自信が足りない。それでも守り抜かなくてはならない人のために頑張ろうと、心に決めるのだった。それをなんとなく横で感じ取っていたシノンは、何か考えるようにただルミナを見つめていた。
「お待たせ。さあ、みんな乗って」
馬車を引いて宿の前へ戻ってきたアルファ。馬車の荷台にはナビールで買い込んだ食糧を積み込み、荷台の中央付近にハマナとシノン、すぐに昇降できる場所にルミナとユウキ、御者席に座るアルファの隣にアリュスフィアが乗り込む。
「フィア、お前も荷台でいいんだぞ?」
「いいわ。あたしは地図でも見て、方向音痴なお兄ちゃんを案内してあげる」
「ほ、方向音痴って言うほどでもないだろ…」
アルファは一瞬引き攣った表情でそう答えるも、荷台に座る皆が少しでも広いスペースで過ごしやすいよう、率先して御者席に着いたのだと察してそれ以上は何も言わなかった。
「それじゃ、出発するぞー!」
「おー!」
アルファのその合図にルミナが手を上げながら、声を上げた。皇都・ナビールを東門から出て、一行は海のある方向へ向かう。そこには西大陸最大の港にして、西大陸の窓口と言われるミナー半島がある。
ミナー半島は客船だけでなく漁船も存在し、新鮮な海産物を味わうことのできる港だ。
漁港でもあるため、地元で最も人気な職業は漁師。氷の魔石を使用した特別な保存方法で隣国のチグアム皇国にも新鮮な海産物を輸出をしており、この場所はヘルガ皇国にとって、食の国であるチグアム皇国との関係を繋ぐ架け橋の一つとなっている。
皇都・ナビールから直接繋がる街道に沿って行けば、ほとんど迷うことなくミナー半島へたどり着くことができる。冒険者や軍の活躍により、この街道で盗賊や魔物に襲われるリスクも少なく、皓月千里は非常に安全な旅路を走っていた。
「あそこの分岐点は左ね。右に行くと、全く別の町に着いちゃう」
「了解」
兄の横で地図を確認しながら道を示すアリュスフィア。かなり順調な旅路であるため、当初ミナー半島に到着するのは三日を想定していたものの、二日ほどで到着することだろう。
野営にて一泊し、二日目の日暮れにはミナー港へ到着した皓月千里。今のところあの姉弟からの襲撃の気配はなく、魔物や盗賊との戦闘もなく、一行はほとんど疲労することなく港へ到着できた。
「…思っていたよりも順調だったんで、拍子抜けだな」
「お兄ちゃん、それでも油断は禁物よ? 何が起こるか全くわからないんだから」
「そうだな。引き続き警戒はするとして…みんなは先に休んでいてくれ。俺は馬車を港の貸し馬車の支店に返してくるから」
「あたしが船のチケット取ってくるわ」
「ボクも行きますよ。馬車に乗っていたので、体力は十分残ってますから」
「そう? じゃ、一緒に行きましょ」
そんな会話をしてから、それぞれの役割を全うするため各自散った。ハマナの傍には誰かが付いていなければならないこともあり、彼の元にはシノンとルミナが残った。宿に入り、二部屋取ったうちの男性陣の部屋にて、シノンとルミナ、そしてハマナは皆の帰りを待った。
「ハマナ、大丈夫?」
「はい。ごめんなさい、迷惑をかけちゃって…」
ハマナはまだ肩に力が入っている。しかし港までの道中はほとんど戦闘などもなく、ナビールを発つ前よりかはかなり緊張も解れた様子だ。
「大丈夫、そんなに心配しないで」
ルミナはハマナの隣に座り、そっと頭を撫でてやった。その顔は慈愛に満ちており、まるで母親のように慣れた様子でハマナを慰めていた。
「……」
壁に背を預けたまま立っていたシノンは、そんなルミナをただ見つめていた。以前から少し思っていたが、ルミナは歳下の人間に対しての面倒見が良いようだ。シノンに対してもそうだし、ユウキと接する時も似たような場面を見たことがある。
そんなルミナの態度に、ハマナはようやく安心したようだった。眠気が来たのか、度々目を擦るようになった。
「少し寝る? 馬車に乗っていたとはいえ、外だと疲れたよね」
ルミナはハマナの顔を覗き込むようにして、優しく声をかけた。ハマナはそれに対して素直に頷き、そのままベッドに潜り込んで眠ってしまった。
ルミナはそんなハマナの身体を、ハマナが眠るまで、トントン、と優しく叩いていた。
「四大公爵家」 知名度 ★★★★★
全王王国リリーズに存在する公爵家の総称。別名:全王の犬。
ダグリス公爵家、ジャミーラ公爵家、ハインリッヒ公爵家、クシャルトダリヤ公爵家を指す。
それぞれ、司法・魔法・歴史・騎士(軍)を司っている。




