040. 月と狼
ハマナの体調は回復し、問題なく活動できるようになった。
ハマナの様子はというと、目が覚めてからかなり怯えた様子だった。
元々外に出ることを嫌っていたハマナ。一瞬の出来事だったとはいえ、心臓を貫かれた経験をしたトラウマは、一命を取り留めたからと言って一瞬で消え去るものではない。
洞穴から出たがらなかったハマナを説得したのは、シノンだった。
このままここにいて再び青年と女性が襲撃してくれば、一つしかない出入口から逃げることは不可能となることを伝えると、ハマナは渋々洞穴から出てきた。そして、一刻も早く街へ着くことが、青年と女性から一時避難することにも繋がる。
比較的目立つ黒髪をフードで隠し、できる限り早めの足で皇都への道を進んでいた。残り二日間、大鎌の青年と蔓を操る女性を常に警戒しながら歩かなければならない。
途中、襲い来る魔物との戦闘もあった。しかし大鎌の青年と蔓を操る女性の襲撃はなく、明日には皇都に着くといった予定で、皓月千里は見通しの良い場所で野営をすることになった。
「シノン? 寝ないの?」
ルミナと見張り番以外の者たちが寝静まった夜、焚火の光が届くか届かないかといった場所で座っているシノンに声をかけたのは、ルミナだった。
「寝るよ」
「こんな所じゃ寝れないでしょ。今日はちゃんとテントで寝た方が…」
そう話している途中で、ルミナは言葉を止めた。シノンが、夜空を見上げていたからだ。
ルミナも釣られて夜空を見上げるが、シノンが見つめる先にある夜空に浮かぶ月は少し欠けていて、一部が雲の裏に隠れてしまっていた。
「…今日は満月じゃないよ?」
「うん…でも、なんとなく…見たくなって…」
シノンが決まって夜空を見上げてじっとしているのは、満月の時だけだった。しかし満月は数日前で、とっくに月は欠けている。満月以外の月を見上げるシノンは、ルミナにとって非常に珍しい光景だった。
「そっか。でもせめて、私たちの手が届く範囲にいて欲しいな。シノンは怪我人だし、こんなに離れていると、いざという時守れないから」
「心配しなくていいよ。剣は左手でも振れるし、魔法もある」
「それはそうだけど…」
ルミナは少し困ったような声でシノンに言葉を返す。確かにシノンは強いし、ここ二日間の魔物との戦闘でも積極的に前衛として戦っていた。普段は剣士として戦っているシノンだが、実のところかなり卓越した魔法使いでもある。
マガネスの人除けの結界の存在を見抜いたり、誰も見たことがないような魔法を使ったり、荷物のほとんどを空間魔法と呼ばれる魔法で異空間に収納していたりと、魔法学の様々な面においてあらゆる知識と技術を持っている。
日常で使える魔法から、戦闘に使える魔法まで、それを一切の詠唱を必要とせずに使う。
「…そういえば、シノンが魔法を使う時って詠唱しないよね。マガネスおばあちゃんも魔法を使う時は絶対詠唱するのに」
「そうだな」
シノンは、明らかに他の人間とは違う特異な存在だ。他の者が右に出ることを許さない莫大な魔力量もそうだが、まだ十六歳という成人して間もない青年でありながらも熟練の戦士のような剣と魔法の技術、豊富な知識、冷静に全体を見ながら物事を分析できる聡明さなど。
ルミナにとってシノンは一つ下の後輩くらいの年齢差しかないにも関わらず、シノンがずっと歳上の人間に見えてしまっているのは、それらの特異さに起因しているだろう。
「…シノンはさ。故郷に帰りたいとかは思わないの?」
「うん」
「どうして?」
ルミナはシノンの隣にしゃがみ込み、彼の顔を覗き込みながらそう問うた。記憶はなくても、故郷という言葉はどんな人間にも唯一無二の帰る場所のはずだから。
「覚えてないから」
「覚えていなくても、帰る場所がない…知らない、覚えてないって、寂しくはないの?」
「うん」
シノンはルミナの問いに迷いなく答えた。自分の顔を覗き込むルミナの目を、まっすぐに見つめながら。そしてシノンは再び月を見上げ、静かに言葉を続けた。
「今の俺の帰る場所は、ルミナたちのいる場所だ。それを捨ててまで、自分の記憶を探そうとは微塵も思わない。ただ…」
そこまで言って、シノンは言葉を飲み込む。そして続きを口にすることなく、再び月を見つめ始めてしまった。ルミナはシノンが止めてしまった言葉の続きが気になったものの、言いたくないことを無理に聞いても仕方がないと諦め、彼が話したいと思った時に聞こうと、特に問い詰めるようなこともしなかった。
ルミナはシノンに対し、何度もこのような話をしてきた。シノンは嫌がったり面倒くさそうにすることもなく、何度でもルミナの質問に答えてくれた。シノンの答えはいつも同じで、過去の記憶に執着している様子を一度も見せたことはなかった。
「…私は諦めてないよ。私は、シノンがどこで生まれて、どんな人たちに囲まれて育ってきたのか、どうしてそんなにすごいのか、ちゃんと知りたいから」
「…そうは言っても、ロウと旅をしていた時でさえ、手掛かりはひとつもなかった」
「あるでしょ? 唯一、まだ調べられてない手がかりが」
「ああ…」
シノンはルミナにそう言われてから、砂漠の奥地に存在する夢見の里の存在を思い出す。
魔女と呼ばれるマガネスの占いによって、シノンは夢見の里…正確には、夢見の民と呼ばれる者たちが信仰する幻夢龍と何かしら深い関係があるということだけが判明している。しかし、前回夢見の里を訪れようとした時は、訳もわからず門前払いのような状況になってしまい、住民から情報を得るどころか里に入ることさえできなかった。
戦いになってしまっては後に大問題になる可能性が高かったため、シノン達は撤退を余儀なくされた。
「だけど、侵入は一切許さないって雰囲気だった」
「うん。そうだけど、それでも手がかりがあそこしかない以上、もう一度行くしかないよ。いつか、絶対にもう一度行こう。その時は、ユウキも一緒に」
ルミナは柔らかい笑みをシノンに向ける。シノンは特に表情を変えなかったが、少しだけ息を吐いて、肩の力を抜いているように見えた。
「あ、雲が晴れた」
「うん」
少しだけ月にかかっていた雲が晴れ、月全体が見えるようになる。青い光が地上に降り注ぎ、シノンとルミナを包み込む。
シノンは黙って、じっと月を見つめていた。
「…シノンって、実はお月様から来た王子様だったりして?」
「いや…それはないだろ」
ルミナが冗談めいた口調でシノンにそう言うと、シノンはそれを即座に否定する。
「だって、シノンはいつも月を見ているし、シノンは月を見ていると懐かしい気持ちになるんでしょ? シノンのこの髪だって、まるでお月様みたい。目は星が散りばめられた夜空で、シノンの耳と尻尾の狼は、月の使いの象徴でしょ?」
「えっと、それはルミナの故郷の…?」
「うん。心が綺麗で純粋な人が悪夢を見た時、月から月の使いが来て、その人に幸運をもたらしてくれるっていう言い伝えがあるの。その月の使いは、白銀の毛並みに六枚の大きな翼を持つ狼なの」
ルミナは楽しそうにそう語る。
翼狼と呼ばれる幻獣の話は、シノンも耳にしたことがあった。北方諸国に伝わる伝説の一つで、翼狼は水神の眷属であるという話だ。
「…でも、王子様っていうのは?」
「えっと、うーん…シノンはどう見ても純粋な狼じゃないし、翼もないから…なんとなく?」
ルミナはこてん、と首を傾げながらそう言った。シノンもまばたきを一度して少しの間固まり、やがてふっと小さく笑みをこぼした。
「えっ、シノン、今、笑ったの?」
「ごめん」
「うっ…いや、いいんだけど、なんか、複雑っていうか」
ルミナはシノンに笑われて恥ずかしい気持ちと、しかし滅多に見れないシノンの笑顔が見られて嬉しい気持ちといった二つの感情が複雑に絡まった表情でそう言葉を口にした。
皆が知っている通り、シノンはほとんど笑わない。感情を表に出すことがほとんどないから、他人は彼の思考を読むことが非常に難しい。
感情がないわけではないものの、如何せん表情筋が凝り固まっているせいか無感情な人間だと思われがちな、不憫な人間だ。
実際、一瞬笑ったかと思えば次の瞬間にはいつも通りの無表情に戻っているのだから、ルミナは気のせいだったのでは? とさえ思った。しかしシノンは否定しなかったため、後になってから羞恥心がじわじわと込み上げてくる。
「う~…私は真面目に言ったんだけど?」
ルミナは頬を膨らませながら、ふいっと顔を逸らした。実際は半分が冗談だったのだが、あのシノンが自分のその言葉に笑った、という事実がより彼女の羞恥心を増大させていた。
「理にはかなってるかもな」
「う…なんか、もういいや…これはこれで逆に恥ずかしくなってきた…」
シノンはルミナを揶揄うつもりなど毛頭なく平然としているし、自分だけがなぜ恥ずかしくなっているのか、もはや理解できなくなったルミナは、一度落ち着こうと深呼吸をする。
「ま、いいや。明日には皇都に着くんだよね?」
「そのはず」
「私も寝なきゃ。フィアと一緒に、後半の見張り当番だから」
ルミナはそう言いながら立ち上がる。そしてシノンを見下ろしながら、口を開いた。
「ねえ、まだテントで寝るつもりはないの?」
「うーん…元々、外で寝ることに慣れてるだけだし…」
「ロウさんと旅してた時は、テントはなかったの?」
「うん。二人旅だし、どうしても必要だったわけじゃなかったから」
たった二人で旅をしていた頃は、身軽であればあるほど良かった。
特にロウは傭兵として名を上げている人物であり、テントやその他の大型用具はどうしても邪魔になる。荷物持ちや馬車などを使っても、身軽さと移動速度の両方を上手く満たすことはできない。
荷物を持ったままでも問題なく戦えるように、いざという時自らの生命を守るため逃げられるように、二人の旅の荷物はいつも最低限だった。
「そっか。でも、シノンは収納魔法を使えるんでしょ? それは使わなかったの?」
「…確か、俺が魔法が使えることが分かったこと自体、そんなに前じゃなかった」
「…そうなの?」
「うん」
ルミナは驚きで、少し間を置いてからそう返した。あまりに意外で、想定外だったから。
「魔法が使えるってわかってから、なんとなく、あれもこれも使えた気がして、色々試していたらできたんだ。収納魔法は盗難の心配がなくなるし、敵の不意を突ける攻撃魔法は便利だった」
シノンは平然と話すが、そもそも魔法というのは、詠唱と、頭の中で魔法の発動イメージをすることが必要不可欠な技術だ。魔法を扱うには生まれ持った才能が必須だが、才能だけで成り立つものかと言われると、そういうものではない。
「…詳しい話は、また今度。先に寝ろ」
「うーん…気になるけど、また今度絶対に聞かせてね」
「うん、必ず」
必ず、という言葉を、シノンは破らない人間だ。それを知っているルミナは満足そうに笑みを浮かべながら、よし、と声を発し、シノンに手を振ってその場を去った。
シノンは再び夜空に浮かぶ月に視線を向け、いつの間にかその場で眠りに就いていた。
「北方諸国に伝わる月の使いの伝説」 知名度 ★★☆☆☆
「心が綺麗で純粋な人が悪夢を見た時、月から月の使いが来て、その人に幸運をもたらしてくれる。その月の使いは、白銀の毛並みに美しい六枚羽を持つ狼のような姿をしているとされている。」




