3話 帰還
午前一時。
宿を出ると、夜の冷たい風が頬に触れた。
エレナは魔導馬車を拾った。
後部座席に深く腰掛け、魔導板の鏡面を起こす。
髪を整える。
唇の色を直す。
鏡の中の自分を見つめる。
乱れているところはない。
目元にも、特別な変化はない。
エレナは魔導板を閉じた。
王都の高級居住区にある自宅へ着くと、玄関の認証結界に手をかざした。
淡い光が指先を包む。
結界がエレナを認め、静かに扉が開いた。
住まいは王都の高層塔、その上層階にある。
玄関の扉を静かに閉めると、室内にはいつもの香炉から淡い花の香りが漂っていた。
照明の魔石は落ちている。
廊下の奥にある書斎の扉の下からだけ、細い光が漏れていた。
「ただいま」
小さな声で言う。
返事はない。
エレナは靴を脱ぎ、洗面所へ向かった。
水の魔石に触れる。
透明な水が細く流れ出す。
手を洗う。
顔を洗う。
カイルの香油も、宿に残してきた夜の気配も、水と一緒に洗い流してしまう。
洗面台の鏡を見る。
そこには、いつもの自分がいた。
少しだけ髪を整える。
香草水を肌になじませる。
いつもの手順だった。
そのとき、書斎の扉が少し開いた。
「おかえり、エレナ」
リュートが顔を出した。
首には通信魔法に使う銀糸の首飾りがかかっている。
「まだ起きてたの?」
「会議、今終わったところ」
リュートは疲れた顔で笑った。
「楽しかった?」
エレナは一瞬だけ間を置いた。
「ええ。久しぶりに友達とゆっくり話せたわ」
「そっか」
リュートは、それ以上何も聞かなかった。
「リュートは?」
「僕はこれから少し書類を片づけて寝るよ」
「無理しないでね」
「うん」
リュートがエレナの髪に触れた。
ほんの一瞬だった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
書斎の扉が閉まる。
エレナはその場に立ったまま、自分の髪に触れた。
さっきリュートが触れた場所だった。
温かさは、もうほとんど残っていなかった。




