よろめく魔法陣
寝室に入る。
寝台のシーツが冷たい。
エレナは目を閉じた。
しばらくして、書斎の灯りが消えた。
リュートが寝室に入ってくる。
寝台がわずかに沈み、毛布が動く。
やがて、背中から腕が回ってきた。
「エレナ、起きてる?」
「……ええ」
「今日、ふと思ったんだ」
リュートの声が暗闇の中に落ちる。
「僕たち、うまくいってるよね」
エレナは答えなかった。
「お互い自由で、干渉しすぎなくて。こういう夫婦になれて、よかったなって思ってる」
リュートの声には、疑うものが何もなかった。
エレナは暗闇の中で目を開けた。
もし今、
――今日、別の男といたの。
そう言ったら。
リュートはどうするだろう。
怒るだろうか。
黙るだろうか。
それとも、エレナが想像しているよりずっと静かに、何かを終わらせるのだろうか。
けれど、エレナには分かっていた。
言わない。
これからも言わない。
言いたいとも思わない。
「ええ」
エレナは言った。
「私も、そう思う」
リュートの手の上に、自分の手を重ねる。
温かい手だった。
それなのに、その温もりはどこか遠かった。
魔晶硝子一枚を隔てているようだった。
エレナは目を閉じる。
窓の外では、夜の王都が静かに光っている。
空を横切る魔導船の灯り。
遠くの塔で揺れる魔石灯。
無数の窓にともる、無数の明かり。
その一つ一つの部屋に、無数の人間がいる。
それぞれが誰かを愛し、誰かに愛され、何かを守りながら眠っている。
自分も、その一人なのだろう。
そう思おうとした。
けれど、どこかで引っかかった。
何に引っかかっているのかは分からない。
罪でもない。
後悔でもない。
不満ですらない。
ただ、足元がほんの少しだけ揺れている。
立っているはずなのに、床が動いているような。
まるで、見えない魔法陣の中心が、ほんのわずかにずれてしまったような。
エレナは目を閉じた。
明日になれば、またいつもの朝が来る。
火の魔石を起こし、湯を沸かす。
リュートと朝食をとり、仕事へ行く。
家中の魔導具が決められたとおりに動き、掃除ゴーレムが床を走る。
何も変わらない。
何も壊れない。
何も失わない。
それでも、その夜。
眠りに落ちる直前、エレナはほんの一瞬だけ、自分が透明になったような気がした。
リュートの腕の中にいるのに、どこにも繋がっていない。
その感覚が、ほんのわずかに怖かった。
けれど、エレナは目を開けなかった。
そのまま、静かに眠りへ滑っていった。
窓の外で、王都の光が魔晶硝子に滲んでいた。
そしてその硝子の向こう側で、
何かがほんのわずかに、よろめいた。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。




