2話 日常の外側
「リュートは、今夜は遅くなるの?」
前菜を口に運びながら、カイルが訊いた。
「ええ。帝国との合同魔術会議。たぶん夜更けまで書斎にいると思う」
「そっか」
カイルは杯を傾けた。
「僕たち、恵まれてるのかもしれないね」
「どうして?」
「誰も何も要求しない」
エレナは少し考えてから、笑った。
「そうね」
「好きなときに会って、帰りたくなったら帰る。それで日常には何も持ち込まない」
「便利よね」
「便利って言う?」
「悪い意味じゃなくて」
エレナは白葡萄酒を一口飲んだ。
泡が舌の上ではじけて、すぐに消えた。
こういう関係には、もっと重い名前がつくものなのだろう。
背徳。
罪。
裏切り。
けれど今の自分には、どの言葉もしっくりこない。
カイルといる時間は、日常を壊すものではなかった。
日常から、ほんの少し離れるだけ。
それが終われば、また戻ればいい。
食事を終えると、二人は街の中心から少し離れた宿へ向かった。
そこは、貴族や魔術師たちが人目を避けるときに利用する宿だった。
部屋の中では、天井に浮かぶ光球だけが淡く揺れている。
窓を覆う魔晶硝子には、王都の夜景がぼんやりと映っていた。
カイルの手がエレナの肩に触れた。
指先は温かかった。
エレナは目を閉じた。
身体は素直に反応していた。
けれど、その一方で、どこか遠くから自分を見ているような感覚があった。
自分の身体がそこにある。
カイルの腕の中にある。
それなのに、自分自身は少し離れたところにいる。
その感覚を、エレナは以前から知っていた。
リュートと抱き合っているときにも、ときどきあった。
仕事をしているときにも。
休日に一人で魔導喫茶にいるときにも。
だから、特別なことだとは思わなかった。
(私は、ちゃんと自分の人生を生きている)
そう思う。
けれど、その「ちゃんと」が何を意味しているのかは、もうよく分からなかった。




