1話 透明度の高い夜
理想の夫婦だった。
だからこそ、その心の空白に誰も気づかなかった。
幸福の中で少しずつ透明になっていく、一人の妻の物語です。
金曜日の午後七時。
王都の中心街にある魔導喫茶には、
夕闇と街路を照らす魔石灯の光が混ざり合った、
どこか現実味の薄い色が満ちていた。
店の壁は、透明度の高い魔晶硝子でできている。
通りを行き交う魔導馬車の灯りが硝子に映り、その向こうを歩く人々の姿が、
水の中にいるように淡く揺れていた。
エレナは、手のひらに浮かべた薄い魔導板を指先でなぞりながら、
氷魔法で冷やしたミルク茶を飲んでいた。
魔導板には、自宅にある魔導具の状態が表示されている。
居間の冷却魔石――正常。
床掃除用の小型ゴーレム――清掃完了。
洗濯桶の洗浄魔法――明朝六時に起動予定。
何もかもが、決められたとおりに動いている。
「お待たせ。遅くなってごめん」
向かいの席にカイルが滑り込んできた。
仕事帰りの彼は、濃紺の外套を軽く羽織り、ほんのりと柑橘系の香油をまとっている。
「ううん。今来たところ」
エレナは笑った。
嘘ではない。
ただ、その十五分前から、彼女はここにいた。
自分の家がいつものように動いていることを確かめながら、これから始まる時間を待っていた。
エレナは三十歳。
王都の魔導商会に勤める夫、リュートと結婚して四年になる。
リュートは合理的な男だった。
感情を声高にぶつけることもない。
家事の分担も、休日の予定も、互いの仕事も、きちんと話し合って決める。
エレナが一人で過ごしたい夜には、リュートは何も聞かない。
リュートが仕事で遅くなる夜にも、エレナは何も聞かない。
二人の間には、喧嘩らしい喧嘩が一度もなかった。
周囲からは、よく言われた。
――理想的な夫婦ね。
エレナ自身も、そう思っていた。
だからこそ、ときどき不思議だった。
何も足りないものがないのに、自分の中には、指先で触れても形をつかめない空白がある。
カイルとの関係が始まったのは、半年前だった。
二人が同じ魔導商会の仕事で、街の広告結界を作ったことがきっかけだった。
仕事を終えたあと、二人で酒場へ行った。
その帰り、どちらからともなく宿へ向かった。
後悔も、罪悪感もなかった。
ただ、道を歩いていて、予定していた大通りから一本外れた細い路地に入ってしまった。
そんな程度のことだった。
以来、二人はときどき会うようになった。
「今日のエレナ、少し雰囲気が違うね」
カイルが魔導板の献立を眺めながら言った。
「そう?」
「うん。なんていうか……透明度が高い」
エレナが笑う。
「変な褒め方」
「魔晶硝子みたいだなと思って」
「それ、褒めてる?」
「もちろん」
エレナは、その言葉が嫌いではなかった。
カイルは、彼女の生活に踏み込まない。
夫のことを詳しく聞かない。
将来のことも話さない。
愛しているとも言わない。
エレナも、それを望んでいなかった。
彼は日常の外側にいる。
そこから手を伸ばしてくる。
ただ、それだけだった。
2話へつづく




