2-4 隠しごと
ぬるりとした何かが、セイゲンの足先から腰の上までまとわりついてきている。
気づけばいつの間にか霧は晴れていた。ただし彼が今いる場所は、見慣れたいつもの部屋ではない。
どうやらここは円筒型の大きな穴らしく、直径は十メートルあるかどうか。その中にはぬめった感触の生き物が大量に蠢いていた。もはや無数といっていい。
さほど離れていない位置に椎葉、フブキ、ハルク、キョウスケ、ミコもいた。さらにはまだ鞄の中にいるぬいぐるみのオリカも。なのでそこかしこから悲鳴が聞こえてくる。
「──これは蠆盆だ!」
思わずセイゲンも叫んでしまった。
古代中国の殷の時代、暴君として知られる紂王の好んだ処刑方法が蠆盆である。気に食わない者を罪人として毒蛇や蠍で満ちた穴へ突き落とし、絶命させるのだ。
そんなとんでもない代物が今、セイゲンの目の前に現れている。
もちろんこれは正体不明の術師が仕掛けてきた幻覚なのだろう。わざわざ探偵事務所への依頼人に扮し、高級洋菓子店のケーキを購入して罠を仕込んでいたとは、敵ながら随分念入りなことだと感心するやらあきれるやら。
だがここでハルクから追加の情報がもたらされた。
「みんな聞け! こいつらはすべて鰻で、蛇の類じゃない! 毒はないから慌てず行動しろ!」
宙宮家の食事担当である彼だけに、さすがに食材には詳しい。
近くにいたミコをひょいと肩まで担ぎ上げたハルクは、空いているもう片方の手で器用に鰻を握っている。なのでその判断はまず間違っていないだろう。
「ハルクの言う通り、これは鰻よ。とはいえ鰻だって人を噛むことはあるから、できるかぎり刺激しないようにして」
すぐにフブキも注意喚起する。
刺激するなと言われても、これだけ鰻が密集していれば難しい。
キョウスケも「ユキ姉さん、無茶苦茶言うなあ」とぼやいていた。
しかしぼやきというレベルではなく、明らかに取り乱している人物が一人だけいた。まさかの椎葉だ。
顔の下半分を両手で覆い、椎葉は肩を震わせている。
「やだ、やだ、やだ、うなぎ、やだ」
「おい椎葉、どうした。顔色が悪いぞ。ひとまず深呼吸を──」
声を掛けたセイゲンだったが、最後まで口にすることができなかった。その前に椎葉が半狂乱となって絶叫したのだ。
「あーーーー、あーーーーっ!」
「落ち着け! すぐそっちへ行くから!」
どう見ても只事ではない。セイゲンは密集している鰻をかき分けて椎葉に近づこうとするが、その塊はあまりに重い。怪力無双のハルクのようには動けないでいた。
なかなか進めず悪戦苦闘しているセイゲンの腕へ、柴犬のぬいぐるみが飛びついてきた。オリカだ。
『セイ、非常事態だよ。椎葉くんを助けなきゃ』
「わかってる、わかってるよ。わかってるけど」
焦りだけが募っていくセイゲンへ、諭すような口調でオリカは「〈折り鶴〉を使うべきときが来たんだよ」と告げる。
『きっと大丈夫。あの〈折り鶴〉には確かな力が込められているから』
「真昊さんの……」
轟音寺での出来事を思い出す。
全身の力を使い果たしたのではないか、と心配になるくらいふらふらになっていた真昊は、セイゲンとオリカへ向けて三羽の〈折り鶴〉を差し出してきた。
「これは、私の法力を注ぎ込んだ護符代わりです。もしもいざというときが来てしまったならば、この〈折り鶴〉に向かって強く念じてみてください。きっと助けとなってくれることでしょう」
真昊住職の法力、そして利他的な精神に疑いの余地はない。セイゲンや宙宮家のきょうだいたちが最も困難だった時期に、どれほど彼の世話になったことか。
慌てて鞄の中をまさぐり、すぐに一羽の〈折り鶴〉を探し当てる。お椀型にした左手に乗せてみれば今にも飛び立ちそうだ。
心を研ぎ澄ませたセイゲンは祈りに集中していく。
「頼む、〈折り鶴〉。どうか家族のみんなと椎葉をこの危機から救ってほしい」
『幻覚を打ち破って、お願い』
オリカも小さいぬいぐるみの体で必死に声を絞りだしていた。
二人の祈りが効果を発揮するのに、ほとんど時間はかからなかった。ただの折り紙でしかなかったはずの〈折り鶴〉は光を放ちだし、そのまま宙に浮かんでいく。
〈折り鶴〉の光はどんどん眩さを増し、セイゲンも直視できなくなる。
そして瞑っていた目をおそるおそる開けてみると、何事もなかったかのように元のリビングルームへと戻っていた。蠆盆の痕跡などもう跡形もない。
ただ〈折り鶴〉だけが一枚の単なる紙へと戻っていた。
「ふうう」
誰かが大きな安堵のため息をついているな、とセイゲンは思った。数秒のちにそれが自分のものだったことに気づく。よほど緊張していたのだろう。
だが安全は確保できたし、とにかくまずは椎葉のケアが最優先だ。
「大丈夫か。どこも怪我はしていないか」
うずくまっている椎葉へ駆け寄り、背中をさすってやる。下を向いていて見えない彼の顔のあたりから、かすかな嗚咽が聞こえてきた。
それでもセイゲンはあえて無視し、ただ黙って椎葉のそばに居続けた。宙宮家のきょうだいたちも静かに成り行きを見守ってくれている。
しばらくしてようやく落ち着いたのか、椎葉がかすれた声で呟いた。
「ごめん」
「気にするな」
ぽん、と彼の背中を軽く叩いて話を終わらせたつもりだった。
けれども椎葉の方はそうではなかったらしい。
「実は僕、鰻にはトラウマがあって」
「おい。無理に事情を説明しなくったっていいんだぞ」
「いいんだ。聞いてほしい」
切れ切れに語りだした彼の過去もまた宙宮家のみんなと同じく、家族という枠組みに翻弄されていた。
椎葉が物心ついた頃から、両親の仲は険悪そのものだったという。プロではないがバレーボールの実業団に所属している母、そして外資系の企業に勤めている父。忙しい両者は当然のようにすれ違う。
そんな夫婦だったので、正式に離婚が決まったのも早かった。幼い椎葉がまだ小学二年生のときの話だ。
家族揃っての最後の食事は、何度か訪れたことのある老舗の鰻屋であった。注文を済ませ、配膳を待っている間にも夫婦の会話はない。双方が散発的に幼い息子へ話しかけてくるだけだ。
まだほんの七、八歳の子供であったにもかかわらず、椎葉は両親の離婚に対しては納得していた。というよりもあきらめていた。仲の悪い父と母をこれ以上繋ぎ止めておくことはできないのだ、と。
だけど最後の食事の時間くらいは、せめて笑って過ごしたい。そう思った彼はどうにかして両親の気を引きたかった。
ホールの目立つ場所に大きな壺が置かれてある。優に子供が隠れられそうなサイズだが、その中では鰻が何匹も泳いでいた。
幼かったがゆえに、この頃の椎葉には思慮が足りていない。それは事実だ。
「トイレ」と言って席を外した彼は、迷わず壺の中へ両腕を突っ込んだ。ぬるぬるしている鰻を捕まえてみせればきっと両親も喜ぶ。そんな稚拙な思いつきで。
結果、彼は腕を噛まれた。その痛みに椎葉は泣き喚き、当然ながら店内も大騒ぎになってしまう。
この行為が引き金となって両親の言い争いは最後まで激化し続けた。鰻屋でも、病院でも、憎み合っているかのように父と母は互いを罵り続けた。
「そんなわけだよ、僕が鰻を苦手としている理由。何とも締まらない話だよね」
「そんな過去があったのか……」
呻くようにセイゲンが反応する。
「あと親権について言えば、僕は父を選んだ。今も昔も息子に対してほとんど興味を持っていない人だけど、だからこそ囲碁を好きにやらせてくれた。そこは感謝してる。母は幼い僕が囲碁をやることに対して、あまりいい顔をしなかったからね。自分と同じようにバレーをさせたかったみたい」
全然背は伸びなかったし、バレーより囲碁を選んで正解だったかな。そんな自虐を口にした椎葉は力なく笑った。
幻覚が消失し、元の室内に戻ってはいるものの空気は重い。
しかしフブキがさらりと口にする。
「ふうん。案外、みんな家族のことで苦労しているのね」
「昔の話だよ」
平静を装うまでに回復した椎葉だが、こういうときのフブキの舌鋒は鋭い。
「よく言えたもんね。あれだけ取り乱していたのに?」
「う。忘れてよお」
哀願するその調子があまりに情けなかったため、フブキだけでなくハルクにキョウスケ、ミコも笑い声をあげた。さらにはぬいぐるみ姿のオリカまで。
セイゲンも表情を緩めていたが、なぜか当の椎葉だけは真顔に戻っている。
「さっきから気になっていたんだけど、そこのぬいぐるみ。そう、柴犬の」
彼が指差した先にいたのはもちろんオリカだ。
「君、鰻まみれのときも喋っていたよね? あれもまとめて幻覚だったのかなって考えていたんだけど、今確かに笑ってたよ」
『あ』
オリカ本人が声に出してしまっては、もう言い逃れはできそうもない。




