2-2 折り鶴
セイゲンが肩から提げた、大きめのショルダーバッグがゆらゆら揺れている。
いつも通りオリカはその鞄の中にいた。揺れるからといって別に酔ったりはしない。今の彼女は種としての人間ではなく、ただのぬいぐるみだからだ。
前を歩く轟音寺の住職である真昊が立ち止まり、手振りで奥の客間へと促した。
「こちらへどうぞ」
「失礼します」
一礼してセイゲンが足を踏み入れていく。
椎葉宅の調査を終えた後、彼はすぐに轟音寺へと連絡した。そしてすぐに真昊とのアポイントメントを取り付けたのだ。
オリカもセイゲンやきょうだいたちから聞かされてはいた。彼女が肉体的な死を迎えた直後、真昊からひとかたならぬ恩義を受けたのだという。
しかもその過程で、彼が霊能力者であることも判明したのだそうだ。
ただし寺自体はあちらこちらに改修が必要な傷み具合であり、まだ真昊という人物をよく知らないオリカに一抹の不安を抱かせる。
先にセイゲンを着座させ、真昊はしばらくしてからやってきた。湯気を立てている湯呑みとともに。
「粗茶ですが、どうぞ」
「ありがたくいただきます」
お礼の言葉を述べ、セイゲンが恭しく湯呑みに口をつける。
だがなぜか湯呑みは三個用意されていた。
もったいぶる様子もなく、すぐに真昊が「この場にもう一人、セイゲンさん以外の方がいらっしゃっているようですね」と切り出す。
「ふむ、鞄の中でしょうか。意外に小さいようだ」
これにはオリカも驚くしかなかった。どうやら彼は気配だけでオリカの存在を探り当てたらしい。まぎれもなく本物である。
相談先を間違えていなかったことに安堵しつつ、オリカは畳の上に置かれた鞄の中から前脚を揃えて飛び出した。セイゲンがぎょっとした表情を浮かべているが、そこは気にしない。
失礼を承知の上でテーブルに乗り、彼女は声を発した。
『はじめまして、ご住職。宙宮オリカと申します。以前にわたしが死亡した際は大変お世話になったと聞き及んでおります』
「なんと」
さすがの真昊も、この成り行きには驚きを隠せないでいる。
「いや失礼。よもや宙宮家の長女であるオリカさんがこの場にいらっしゃるとは。魂だけが現世に戻ってこられた、ということなのでしょうか」
『さすがの慧眼ですね、ご住職。ですが成仏できていないということではなく、別次元の世界へ喚ばれていた魂が、万難を排して現世へ帰還したと解釈いただければ幸いです』
柴犬のぬいぐるみ姿とあって短い首だが、どうにかオリカは頭を下げた。
そして真昊も彼女を安心させるかのように柔らかく微笑む。
「ええ、もちろん。未練に縛られて成仏できずにいる魂のような歪みは、今のあなたからは一切感じられませんのでご心配なく」
そう明言した後、彼は視線をセイゲンへと向ける。
「折り入って相談したいことが、とセイゲンさんも電話でおっしゃっていましたが、なるほど。その内容はオリカさんについてなのですね」
「いや、実はそうではないんです」
申し訳なさそうに答えるセイゲンに対し、真昊は再び「なんと」と応じた。
囲碁のプロ棋士である椎葉から受けた依頼について、要点をまとめる形でセイゲンが説明していく。
一人暮らしをしている椎葉が悪夢や幻覚に悩まされていること、彼の部屋には魔力の痕跡が二種類残されていたこと、椎葉自身も強い魔力を有していること。
セイゲンが言い終えるまで、真昊は口を挟まず静かに耳を傾けていた。
『わたしたちには呪いめいた攻撃への対抗手段などありません。ですのでどうか、ご住職のお知恵を拝借できればと考えた次第です』
最後はオリカが締めくくった。
回答にはいくらか時間を要するかとも思ったが、真昊は程なく結論を出す。
「悪夢に幻覚、いずれも呪術の類と見るのが自然でしょう。残念ながら状況を伺ったかぎりでは、その可能性が非常に高い」
ほんのわずかだが、真昊の表情にも険しさが増している。
「その手のプロフェッショナルは確かに存在します。私の知見をもとにお話しするのであれば、悪夢なら灯明流未知原一家、幻覚ならクレバス観測所。この両者がそれぞれ第一人者といっていいでしょうね」
『クレ……クレバス?』
オリカには馴染みのない言葉だ。
傍らのセイゲンが「氷河に見られる現象だよ」と助け船を出してくれた。どうやら南極や北極などの氷河にできる、深い裂け目のことを指すらしい。
真昊も大きく頷いている。
「はい。名称こそ奇妙ですが、クレバス観測所は手強い術師です。何度も対峙する機会があったにもかかわらず、その都度逃げられておりまして」
『それくらいやばい相手なんですね……』
どうやら現世も一般市民のあずかり知らぬところで、光と闇の術師たちがせめぎ合っている世界だったようだ。恐ろしい話である。
眉間にしわを寄せたセイゲンが「ふう」と大きなため息をついた。
「椎葉をどうしたもんかなあ。ぼくらにできるのは匿ってあげるくらいだし、犯人を捜しだして解決しようとするのも危険すぎる。こんな危ない橋、ユキさんを渡らせるわけにはいかないよ」
『わたしも同感。あの子は熱くなると結構無茶するんだよね』
椎葉の身を守りつつ、事態そのものを解決するのは容易ではない。オリカたちは術師への対抗手段を持ち合わせていないのだから。
おまけに彼が保持しているタイトル戦の時期も近づいているらしい。地方会場での対局となれば、椎葉の安全の確保さえ難しくなるだろう。
悩んでいるオリカとセイゲンを見て、真昊は申し訳なさそうに言う。
「私が椎葉八段を四六時中警護できればいいのですが、こう見えて複数の案件を抱えておりまして」
『じゃあやっぱり、自分たちでどうにかするしかないですね……』
わかっている。真昊ほどの実力者であれば、同様のケースで困っている人たちからの依頼は引きも切らないはずだ。
しかし続く真昊の言葉はまったく予想外のものだった。
「ですので、今から私の法力を込めた切り札をご用意します」
オリカとセイゲンは互いに顔を見合わせる。
特に説明を付け加えることもなく真昊は「失礼」とだけ告げ、静かに立ち上がった。
「しばしお時間をいただきますので、楽になさっていてください。それと──」
彼の視線は廊下側へと向けられる。
「直に別の者が参ります。できれば世間話などしつつ、お待ちいただければ」
「はい」
セイゲンが短く答えた。
オリカとしても、真昊以外の人間にぬいぐるみ姿で喋っているのを見られるわけにはいかない。早々にセイゲンのバッグの中へと戻っていく。
襖を開け、奥の間へと真昊が消えてからどれほども経たないうちに、廊下から人の気配がした。
自然な動きでセイゲンがそちらへと視線を遣った。
ほとんど同じタイミングで挨拶の声が掛かる。
「ご無沙汰しております、九慈さん」
オリカにとっても聞き覚えのある声だ。その途端に懐かしさと苛立ちが混じったような、不思議な感情が心中に渦巻く。
一方でセイゲンは落ち着き払った態度を崩さず、軽く会釈をしていた。
「蓮川結さん、でしたね。お久しぶりです」
オリカたち宙宮家の五きょうだいにとって、長らく偽者の母だった女。そしてつい最近、実の母だと戯れに明かした宙宮アリスによって心をすり潰された女。それが蓮川結である。
そういえばこちらの轟音寺でお世話になっているって話だったな、と今さらのようにオリカも思い出す。
廊下で正座したまま、短髪姿の蓮川結はおずおずと口を開いた。
「あの、あれからみんなは元気を取り戻しているでしょうか。それともまだオリカの死を引きずっているのでしょうか」
今の彼女にどこまで記憶が消されず残っているのか、正確なところはオリカにも判断できない。もちろんアリスによって忘却魔術が使用された痕跡はあるのだが。
「ご心配なく。みんな強い子たちです。こちらのご住職をはじめ、いろいろな方に助けていただいてますし、微力ながらぼくも支えになれればと頑張っております」
「そう、ですか」
淀みないセイゲンの返答に対し、蓮川結はぎこちなく頷くだけだ。
時間の流れが急に重くなった気がした。二人の間の会話は弾まず、場の空気は湿度を増していく。
三十代半ばであれば、蓮川結にもまだまだこの先長い人生が待っている。しかし彼女は仏道に帰依し、祈りの日々を過ごしていく生き方を選んだ。
静かに下ろされた重荷の中には、きっと宙宮家のきょうだいたちも入っていたのだろう。それは誰にも責められない。
かつては我が子として接していたきょうだいたちを、蓮川結が本気で心配しているのは間違いないだろう。あくまで外側から、ではあるが。
自ら内側に飛び込んできたセイゲンと、言い方は悪いが外側へ逃れた蓮川結。オリカからすれば二人の構図は象徴的でさえあった。
そんなことを考えていると、閉じていた襖が再び大きく開かれた。
奥からのっそりと真昊が姿を現すが、明らかに顔色が悪い。
「お待たせしました……」
呼吸をするのも苦しそうに彼は言う。無造作に左手で縁をつかみ、どうにか自身の体を支えているといった様子だ。
慌ててセイゲンが駆け寄り、「大丈夫ですか」と肩を貸した。
「さっきの今で、この疲労困憊ぶりはいったい」
「なに、一時的なものです」
絞りだすような声で応じた真昊は右手を差し出してくる。
「それより、これを」
彼の手のひらに乗っていたのは、三羽の小さな折り鶴だった。




