2-1 侵食される日常
調査のためにセイゲンは椎葉宅を訪れていた。同行者は椎葉本人に探偵であるフブキ、そして柴犬のぬいぐるみ姿のオリカだ。もちろんオリカの存在は椎葉へ秘密にしているため、セイゲンの鞄の中に潜んだままである。
案内されたのはごく普通の単身者用ワンルームマンションだった。引っ越す前のセイゲンが暮らしていた部屋とさしたる違いはなく、トップ棋士の住まいとはとても思えない。
室内を見回したセイゲンの率直な印象としては、「よく言えばミニマル、悪く言えば殺風景」というものだ。
「あまり物を持たない主義なのか、おまえ」
「まあ、囲碁の勉強に必要なければ、わざわざ買い求めたりはしないね」
淡々と椎葉が答える。
目を引くのは隅に置かれている立派なデスクで、ここにはパソコンも鎮座していた。現代の囲碁界ではAIを使って勉強しなければトップ層にいることは難しい。椎葉にとっては最も大事な場所なのだろう。
それ以外の物は散発的に設置されていた。食事用と思しき折り畳み式の小さいテーブル、シンプルな二枚扉の冷蔵庫、あとはスティック型の掃除機や平積みになっている詰碁の問題集くらいのものだ。
「椎葉くんさあ、物が勝手に動かされていた形跡ってあった?」
フブキが訊ねた。
いつの間にかさん付けからくん付けになっているが、そのうちもっとカジュアルな呼び方に変わっていくのかな、とセイゲンは予想する。
一方で椎葉は首をひねりながら「うーん」と唸っていた。
「はっきりとはわからないなあ。正直、デスク以外の物が多少動かされていたところで、きっと僕は気づきもしないよ」
「使えねえ……」
早くもフブキは毒舌気味になってきた。
「今のところは椎葉くんの記憶だけが頼りなんだからさ。ここでもう一度、詳しい状況説明をお願いできる?」
「わかった」
素直に頷いた椎葉が、後ろを振り返ってユニットバスのあたりを指差す。
「僕が目にした幻覚の一つに、シャワーを浴びていると水がバレーボールくらいの大きさの球体になったってのがある。そんな水のボールがいくつも出来て、うち一個は跳ね回った挙句に浴室から出ていってしまったんだ」
フブキによる「ふむ」という相槌を受け、椎葉はさらに続けた。
「水のボールはこっちの部屋でも跳ね回り、最後は掃除機の上でばしゃっと弾けて消えちゃった」
「でも幻覚だったんだろ? 特に問題なかったんじゃないか?」
セイゲンが質問すると椎葉はまた首を傾げた。
「それがねえ、床にも掃除機にも水に濡れた形跡はなかったのに、結局掃除機は動かなくなってしまったんだ。で、買い直す羽目になったってわけさ」
そう言って新品同然の掃除機を一瞥する。
「最初は修理をお願いするつもりだったんだけど、原因が水濡れではどうしようもないって告げられてね。誓って言うけど濡れた形跡はなかったはずなんだ。あのときはほんと、現実の境界線が曖昧になっていくような恐ろしさを感じたよ」
椎葉がつまらない嘘でこちらを引っ掛けようとしている線はない。セイゲンはそう確信していた。
そもそもトップ棋士にそんな暇はないはずだし、セイゲンが以前から知っている椎葉像にもまったくかすらないのだ。
「仮におまえがひどく疲れていたとしよう。そのせいで幻覚を目撃していたとしても、掃除機が水濡れで故障したりはしない。なぜならそれはただの幻だから」
確認のためのセイゲンの言葉に、場の一同はばらばらに頷く。
「つまり椎葉、こう考えているのか。何者かが現実さながらの幻をおまえに見せ、精神を疲弊させようとしているのではないかと」
「そうだよ、九慈くん」
顔を上げ、小柄な椎葉はセイゲンと目を合わせた。
「こういうの、世間じゃ呪いって形容するんじゃない? まさか自分が遭遇するなんて夢にも思っていなかったけど」
「呪い、ね。おまえの口からそのフレーズが出ると違和感がすごいけどな」
軽口めいた調子で応じながらも、セイゲンは問題の全容について考えを巡らせはじめている。
鍵になるのはおそらく椎葉の魔力だ。オリカの嗅覚によれば、彼の魔力は現代人としては破格なのだという。ならばその魔力に目を付け、利用しようと目論む者がいてもおかしくないのではないか。
椎葉自身は半ば冗談のつもりで「呪い」と口にしたのかもしれないが、大いにあり得る。なぜならすでにセイゲンは超常的な力の存在を知っているのだから。
そして本来ならオカルト話を苦手とするフブキも、呪いによる犯行の線に傾きかけているようだ。
「ならまず、囲碁の関係者で怪しいやつをピックアップしていくべきね」
たとえばタイトルを争う相手とか、と彼女が言う。
フブキの見立ては常道で、本来であれば有力な筋なのだが。
「それはないと思うな、探偵ガール」
椎葉が間髪容れずに反論すれば、セイゲンも「おれもこいつと同意見だよ、ユキさん」と援護射撃をする。
しかしフブキには受け入れがたいらしい。
「は? 何でよ。密接に利害が絡む相手なんて、いの一番に疑うべきでしょうが」
彼女がムキになるのも当然だ。
椎葉が多大な魔力を保有している件は、現時点ではオリカとセイゲンの間でのみ共有されている。なのでフブキからすれば囲碁関係者が最も怪しく思えるのだろう。
「囲碁をやってる連中なんてみんな単純なんだよ。椎葉を呪って弱らせて勝つよりも、腹立つくらい強いこいつをぶっ倒した方が気持ちいいからね」
あけすけなセイゲンの言葉だったが、それでもフブキはまだ納得できないらしく、きつい視線を向けてきた。
「あんたらがそうでも、他の棋士も同じスタンスとはかぎらない。目の前に人参をぶら下げられたら齧りついちゃうやつだっているはずよ」
「棋士には誇りってものがあるんだ。それを売り渡して得た栄光に何の意味もないことくらい、みんなわかっているはずさ」
いつも淡々と話す椎葉にしては珍しく強めの口調だった。
「そんなの綺麗ごと!」
「僕は好きだよ、綺麗ごと」
フブキの反発を椎葉はさらりといなす。彼女との会話だと防戦一方になりがちなセイゲンとは違い、椎葉の方が主導権を握っている。
一瞬口ごもってしまったフブキは、自分が言い負かされたように感じたのだろう。
「ふんっ!」
どすどすと足音を立てて「こっちも調べる!」とご機嫌斜めな様子でユニットバスへと向かった。椎葉ものこのこ彼女の後についていく。
二人と距離ができたのを見計らい、セイゲンはその場でささやいた。
「どう、オリカ」
『──椎葉くん以外に、魔力の痕跡が二つ。彼も言っていたように、何者かが呪いをかけようとしていると判断して間違いなさそう』
オリカも小声で返してくる。
ただしその返答はセイゲンにとって頭を抱えたくなるものだった。
「二つも? てことは、悪夢と幻覚ってそれぞれ別の人間の仕業なわけか」
『どういう目的なのかはさっぱりつかめないけどね。これ、ひょっとしたらわたしたちの手には負えない案件なのかもしれない』
「だよね……」
彼女の言葉にセイゲンも同意せざるを得ない。
ただ、幸いなことにオカルト案件に強い人物への伝手はある。
霊能力を有し、宙宮家末っ子のミコの実父でもある轟音寺の住職真昊。オリカとセイゲン以外は母アリスによってその血の繋がりを忘却させられているものの、人格者である彼ならばきっと相談に乗ってもらえるはずだ。




