1-2 来訪者
セイゲンとその腕に抱えられたぬいぐるみ姿のオリカ、さらにはキョウスケが一斉に室内へと踏み込んだ。しかし家の中の空気はいたって平和そのものである。
「おう、おかえりー」
エプロン姿のハルクが真っ先に出迎えてくれた。
朝と変わらぬのんびりとした声音に、セイゲンとしても安心しそうになる。
しかしただ一点、明らかに普段と違うことがあった。
「どうなってんだよ、これ。なんでおまえがこの家にいる」
いつになく刺々しいセイゲンの声は、ミコと差し向かいで囲碁を打っている客に向けられていた。
そこにいたのは椎葉理樹、院生時代のセイゲンの同期の青年だ。ただし年齢は椎葉の方が二歳下となる。プロ棋士になれなかったセイゲンとは違い、椎葉はあっさりとプロ試験を突破していた。
そればかりか、まだ十代の若さですでにタイトルを一つ保持する、囲碁界のトップランナーの一人でもある。
そんな男がいったいなぜ、この家を訪れているのか。
なおも問い質そうとするセイゲンだったが、椎葉は片手を上げてただ一言、「対局中だから」とだけ告げて視線を向けようともしない。
「少し前にお見えになって、セイさんが帰ってくるのを待たれていたんですよ」
代わりに答えてくれたのはハルクだ。
「あと、うかつにも来客用のお菓子を切らしていたんで、フブキ姉がひとっ走り買い物に出掛けてます」
「そんな気を遣わなくていいのに」
視線は盤面から動かさず、椎葉が短く応じる。
「ほんとだよ。こいつに出す菓子なんて必要ない」
「まあまあセイさん、そう言わないで」
温厚なハルクがなだめてくるが、セイゲンとしてはこの状況に納得できずにいた。
プロの囲碁棋士を目指して夢破れた彼からすれば、タイトル保持者など文字通り雲の上の人間なのだ。たとえかつての同期であろうと、地表の彼方から仰ぎ見るしかない存在なのだ。
だからこそ、以前と何も変わってなさそうな椎葉の気安さをセイゲンは腹立たしく思う。かといって増上慢な態度をとられたら外へ叩きだしてやりたくなる。理不尽なのは承知の上だ。周りに音が聞こえてしまいそうなくらいに歯を食いしばるのも無理はなかった。
けれどもそんな彼のシャツの袖を、中座したミコが引っ張ってくる。
「セイちゃん、タッチ」
「え? あ、うん」
袖から手を離し、ミコが両方の手のひらを揃えて見せてきた。
彼女の意を汲んだセイゲンは、小さな手に柔らかく触れる。
不承不承ではあったが、セイゲンも入れ替わりで椎葉の対面に腰掛けた。
ここでぬいぐるみ姿のオリカは彼の手から離れ、幼いミコの腕へと移った。さらに空いているカラーボックスの棚へそっと置かれる。ぬいぐるみが自分で動いて喋ることができるなどとは、決して他者に知られてはならない。これは宙宮家のきょうだいたちとセイゲンの共通理解だ。
碁盤を挟んでセイゲンと椎葉が向かい合う。
「じゃあ久しぶりに打とうか、九慈くん」
何ごともなかったのように口にする椎葉は、相変わらずの癖毛だ。小柄で、やや猫背気味なのも変わっていない。
彼の大きな目の中の黒い瞳は、対局していると大きな宇宙のように感じられてきて、吸い込まれそうになってしまうことも度々あった。セイゲンの中の古くて苦い思い出である。
「いきなりやってきて何なんだよ、ったく」
旧友とは呼びたくない間柄だけに、セイゲンの愚痴はまだ止まらない。
「だいたいおまえな、もうすぐ万星のタイトル戦だろ。こんなところでふらふら油売ってる場合かよ」
「お、ちゃんとチェックしてくれてるんだ。うれしいな」
「うるさい。昔の癖が抜けないだけだ」
噛み合わない二人の会話の最中、再びミコが近寄ってきた。今度はチェス・クロックとも呼ばれている対局時計を両手で抱えている。
「これ、いるんでしょ」
「たしかにあった方がいいね。ミコちゃん、ありがと」
椎葉からの感謝の言葉に、ミコは「えへへ」と笑顔で応えた。
盤上を綺麗に整理しながらセイゲンが訊ねる。
「で? ルールはどうする」
持ち時間が一時間だなんて付き合い切れないぞ、と釘を刺す。
椎葉は少しだけ考える素振りを見せた。
「そうだなあ……。なら一手三十秒の早指しでやろう」
「互先か?」
「いや、逆コミで」
まあそんなところだな、とセイゲンも納得した。
互先とはハンデなしの対局であり、本来不利であるはずの後手白番に、コミと呼ばれる六目半の陣地が加えられる。そのコミを有利なはずの先手黒番へ与えるのが逆コミだ。プロアマ名人戦などで使われるルールでもある。
いくらかつて院生だったとはいえ、セイゲンはプロ棋士になれなかった人間だ。対する椎葉はただのプロではなく、すでに七大タイトルの一つを奪取している。実力差は以前よりも大きく開いているだろう。そこはセイゲンも認めるしかない。
こうして数年ぶりとなる二人の対局は始まった。
といっても院生時代の手合いのような張りつめた空気にはならず、十四手目を打ち終えた椎葉がさらりとした調子で話しかけてくる。
「そういや九慈くん、前ほど目がやさぐれてないね」
「余計なお世話だ」
十五手目をセイゲンが打ち込んだ際、少し大きな音を立ててしまう。
ここまで椎葉の打ち回しは非常に好戦的だ。彼にとっても局面が読みにくくなるであろう手を平然と打ってくる。が、セイゲンもまだどうにか椎葉へ喰らいついていた。
布石の段階を終え、戦いは中盤へと突入していく。いなすか、受けて立つか。セイゲンは迷わず殴り合いを選んだ。
「へえ、いいね」
セイゲンの応手を見た椎葉が軽い驚きの声を漏らす。どこかうれしそうでさえある。
チェスクロックの上部に備え付けられているスイッチを押し、秒読みを相手方へ移したセイゲンは、軽い舌打ちとともに椎葉へ釘を刺した。
「無駄口叩いている暇があったら本気でやれ」
「もちろん」
手を抜くつもりはないよ、と答えた椎葉は軽やかに打ち込んでくる。
ただ、二人の地力の差は明白だった。殴り合いの力勝負となれば、どうしたってその差がはっきりと盤面に表れてしまう。
「──ありません」
百手を待たず、セイゲンが小さく頭を下げた。こちらにはもう打つ手がありません、という意味で使われる投了の言葉だ。
「ありがとうございました」と椎葉も応じ、すぐに今しがたの対局を振り返りながらの検討が始まる。
椎葉曰く「疑問手が三つあったね」とのことらしく、その理由も添えて丁寧に解説してくれる。対局中のセイゲンには見通せていなかった局面の指摘だ。
やはりプロ棋士、それもタイトルホルダーである椎葉の壁は分厚かった。しばらく囲碁から遠ざかっていたセイゲンにどうこうできる相手ではない。
にもかかわらず椎葉は妙なことを口走る。
「九慈くん、院生のときよりだいぶ強くなったんじゃない?」
「そんなわけあるかよ」
どう見たって大差での負けだ。勝者によるリップサービスは敗者がよりみじめになるだけである。
しかし椎葉の口調はよりいっそうの熱を帯びていった。
「打ち手に怖さが出てきたよね。元々実力はあったんだよ、九慈くんの場合。でもプロ試験みたいなプレッシャーのかかる対局になると、上手く噛み合わなくなってちぐはぐさが目立っていたと思う。もったいないことにさ」
かつてのセイゲンはメンタル面に弱さがあった、と言いたいらしい。その通りである。さすがに椎葉の洞察力は大したものだ。
けれども才能や努力が足りていなかったのも事実だろう。仮に運よくプロ棋士になることができていたとしても、絶対に今の椎葉のようにはなれていない。
そんなセイゲンの内心に気づくことなく、椎葉は言った。
「ねえ、今からでもアマの頂点を目指しなよ。アマチュア名人。ボクも名人になるから、いつか公式の手合い──プロアマ名人戦で打とう」
ほんの少しだけ心が揺らいだ、それは事実だ。
それでもセイゲンは囲碁への未練を振り払うように席を立ち、高い位置から座ったままの椎葉を睨みつける。
「なあ椎葉。教えてくれ。タイトルホルダーともなれば、他人の人生に口出しできるほどえらくなるのかよ」
自分でも驚くほどに冷ややかな声音だった。
だが椎葉も怯まない。一切表情を変えず、ゆっくりと口を開いた。
「別に。どこまでいっても僕は僕だ。タイトルは強さの証明ではあるけれど、それだって時の運に左右されるものだから」
「ずいぶんと謙遜するんだな」
「ただの本音さ。もちろん、そのタイトルの重みに見合うだけの鍛錬はしてきたつもりだけどね」
本当はセイゲンにだってわかっている。タイトルの一つや二つを手にしたところで、椎葉なら動じたりはしないだろうと。彼はもっと上に行くべき人間だ。
椎葉ともう一度、晴れやかな舞台で手合わせをする。とても甘美な誘いなのは否定できない。
胸の奥で燻っている鬱屈した気持ちを自覚しながら、セイゲンは乱暴な手つきで髪をかき上げた。
「おまえ、ここへ何しに来たんだよ。そんなつまらないことを喋ってるだけならさっさと帰ってくれ。こっちだって暇じゃないんだ」
セイゲンからすれば精いっぱいの喧嘩腰だ。
そんな彼に対し、椎葉は小さく肩を竦めてみせた。
「いやいや、僕は客だから。ちゃんと用事があって訪問したんだよ」
九慈探偵事務所へ依頼したくてね、とさらりと告げる。




