1-1 親はなくとも
十月ともなれば、さすがに残暑も落ち着きだす。
長袖のシャツを着た九慈星彦はとある高級住宅街にいた。ただ道路を歩いているだけでも場違い感は凄まじいし、もちろんお呼びでないのは承知している。
彼の腕に抱かれた柴犬のぬいぐるみが、鼻をひくひくと動かしていた。その仕草はまるで本物の犬であるかのようだ。
「オリカ姉さん、わかった?」
長い髪をサイドテールにまとめている同行の少年、宙宮京佑がぬいぐるみの顔を覗きこむ。
彼が「姉さん」と口にした通り、柴犬のぬいぐるみはただのぬいぐるみに非ず。宙宮家の長姉であり、キョウスケたち四人のきょうだいにとっては母親代わりでもあった宙宮織火、彼女の魂が宿っていた。
『間違いないよ。この先にいるあの人がそう』
とても短い前足で示した方向には、着物姿の洒脱な男が車へ乗り込もうとしている。いかにも高級そうなミニバンだ。
『わずかであっても、あの人には魔術を掛けられた痕跡があるね。残滓、と形容した方が正確かもしれない』
セイゲンとキョウスケは物陰からこっそり男の様子をうかがった。後部座席へ乗り込んだ男は窓を開け、手慣れた様子で周囲の人間に指示を出しており、相当の地位であることが見て取れる。
それもそのはず、男の正体は舞台にテレビにと大活躍している歌舞伎役者だ。名を鯨井善五郎といい、まだ四十前の若さだがすでに押しも押されぬ大看板である。
キョウスケが大きく息を吐く。
「そっかあ。あいつがおれの父親かあ」
その言葉が合図になったわけではないだろうが、ミニバンは静かに発進してすぐに見えなくなってしまった。
「ずっと気になっていた自分の父親を知るってのも、いざ判明してみれば結構あっけないものなんだな」
淡々とした口調でそう語ったキョウスケは、名残惜しそうな素振りも見せずに踵を返す。ミニバンが走り去った方角とはまったくの逆へ。
「じゃ、帰ろうか」
初めて実の父親を知ったにしては、あまりに冷静な態度だ。
思わずセイゲンも「クールな反応だなあ」と率直な感想を漏らす。
「このまま帰ってしまっていいのかい、キョウスケくん」
「実感がないだけだよ。そもそも父親ってのがよくわからないしさ」
肩を竦めながらキョウスケが続けた。
「オリカ姉さんの話だと、あっちだって全然覚えていないんでしょ? 実の息子だと申し出たところで『何だこのガキ、金目当てか』と警戒されるのがオチさ」
そんなはずは、と声を掛けてやりたかったセイゲンだが、外野が無責任に口を挟んでいい事柄ではないことも重々承知している。
歌舞伎役者の鯨井善五郎にはキョウスケの記憶がない。それだけでなく子を成した記憶も、親密な仲であった女性の記憶さえも失われているはずだ。
「まあともかく、父親は普通の人間でよかったよ」
キョウスケの言葉は、言外に「母親は普通ではない」と告げているのと同義だった。
宙宮家の長女のオリカ、次女のフブキ、長男のハルク、次男のキョウスケ、三女のミコ。いずれも父親は異なるが、母親は同一人物である。
宙宮アリスと名乗っている母の正体は、異世界生まれの魔術師だ。
子を成しても育てることは放棄し、好き放題に振る舞い、他者を殺めることに何の躊躇いも持たない女。
宙宮家のきょうだいたちは彼女と夏に出会っているのだが、その記憶はオリカ以外の頭からすっぽりと抜け落ちている。他ならぬアリスが忘却魔術を掛けて去ったためだ。たとえ実子であろうと、彼女にとっては面倒ごとの種程度でしかないのだろう。
あんな恐ろしい女性が母であることを思い出す必要はない。キョウスケら四人のきょうだいへは、彼らの母親が異世界よりやってきた魔術師であったことだけ伝えている。論より証拠、肉体を喪失して魂だけとなってしまったオリカを目の当たりにすれば、全員がすんなりと納得した。
オリカと同様、セイゲンも宙宮アリスの記憶を保持できているのだが、それは彼女の忘却魔術を自力で破ったためである。セイゲン自身、どうやって自分にそんな真似ができたのか、今でもまったくわからない。
『親はなくとも子は育つ、が宙宮家のモットーだもんね』
「そーそー」
ぬいぐるみの姿をしたオリカと、弟のキョウスケとが笑い合っている。二人の声には強がりも悲壮感もない。
その光景は、強張っていたセイゲンの頬も自然と緩ませた。
◇
「そういえばさ、兄ちゃんの父親はどういう人だったわけ?」
帰り道、キョウスケがそんなことを訊ねてきた。宙宮家の長男である晴駆、彼の父親捜しにもセイゲンとオリカが同行していたためである。
先月見つけだしたハルクの父はプロレスラーだった。近く渡米することになっている、プロレス界のビッグスターだ。
探偵を志す次女のフブキが父親候補を絞り込み、母アリスが行使した忘却魔術の残滓をオリカの嗅覚によって捉える。このやり方でハルクとキョウスケ、二人の実の父を立て続けに見つけだしたのだ。
「なぁるほど。どうりで兄ちゃん、めちゃくちゃ力が強いわけだわ。血筋ってのも案外バカにできないね」
「ハルクくんは何も教えてくれなかったの?」
セイゲンからの逆質問に、キョウスケは苦笑いを浮かべる。
「いつ聞いても『またそのうちな』って返事するだけでさ。まあ、兄ちゃんの気持ちもわからなくはないよ。おれらからしてみれば、急に父親が土から生えてきたようなもんだし、どう位置付ければいいのか迷っちゃうんだよね」
そんな会話を交わしているうちに、宙宮家の五人とセイゲンとが暮らすビルが見えてきた。まだ時刻は正午過ぎ、留守番のフブキやハルクが昼食の後片付けをしている頃合いだろうか。
けれどもここでオリカから『待って』と尖った声が上がった。
『この付近で濃厚な魔力の匂いがする。向こうの世界ならともかく、現代人としては破格の濃さを持つ魔力だよ』
魔力を嗅ぎ分ける彼女の鼻はとても正確だ。先ほどのキョウスケの父親捜しのような、微量な魔力の残滓であっても探し当ててしまうほどである。
そのオリカが『濃厚な魔力』と表現していた。正直なところ、セイゲンからすればトラブルの予感しかしない。
「どこへ向かってるの、その匂いの主は」
『これだけ濃いと間違えようがないね。真っ直ぐ進んで……うん、その二軒先のビルに足を踏み入れたみたい。まだ出てきてはなさそう』
「二軒先って、まさか」
彼女の言葉に従えば、やけに見慣れた建物へ魔力の持ち主が入っていったことになる。
「ちょっとちょっと、そこってうちのビルじゃんか」
慌てて前方を指差したキョウスケの言葉通りだ。
オリカを腕に抱えたままでセイゲンは駆け出し、すぐ後ろにキョウスケも続いてくる。三人はそのままビルの中へと入っていった。
一段飛ばしで階段を上がれば、もうそこは彼らが暮らす自宅だ。
気が急くのをどうにかなだめつつ、扉の鍵を開ける。
「みんな、大丈夫か!」
セイゲンが飛び込んでいった玄関の脇には、見落としてしまいそうなほどに小さい看板が掲げられていた。
そこには「九慈探偵事務所」と記されている。




