第5話 境界線上のレガンツィア(1)
その領域は「特異宙域」と呼ばれ、いかなる観測データも持ち帰ることができない、絶対的な暗黒と沈黙の海だった。
過去、数十機に及ぶ無人探査機が送り込まれたが、沈黙の中に消えたきり二度と戻ることはなかった。
「なぜデータすら取れないのか」「なぜ消えるのか」。それを知るためには、人間の目と直感、そして何よりも「異常事態に即座に反応できる」決死の探査航海が必要とされた。
その任に抜擢されたのが、『レガンツィア』であった。
大戦末期の重電子戦艦。その巨大な兵装をすべて観測機器と超空間センサーへ置き換え、深宇宙探査艦として生まれ変わった鉄の巨体。
――そして今、『レガンツィア』は、静かに「特異宙域」へと向かう。
「境界線まで、あと300。……200」
探査艦レガンツィアの艦橋は、重苦しい緊張に包まれていた。
艦長はコンソールの前で腕を組み、張り詰めた声で命じる。
「全センサー、パッシブモードで最大感度を維持しろ。少しでも空間の歪みや異常質量を検知したら、即座に反転離脱する。我々の任務は戦うことでも、英雄になることでもない。『何があるかを見て、生きて帰る』ことだ」
乗組員たちは無言で頷く。彼らもまた、生きて帰ることへの執着を捨てるつもりはなかった。
艦内ステータス
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項目〔推進システム〕
├状態:通常航行(微速)
└備考:反転離脱シーケンス、スタンバイ完了
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項目〔超空間センサー〕
├状態:最大感度
└備考:異常なし
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項目〔シールド出力〕
├状態:警戒レベル4
└備考:いつでも最大展開可能
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「……境界線、通過します」
[踏み入れた沈黙の海]
コンソールの航宙マップで、レガンツィアを示す輝点が赤い境界線をゆっくりと越えた。
人類未踏の領域。無人機たちが消えた「死の宙域」。
乗組員全員が、衝撃に備えて息を呑む。
「……」
「……」
しかし、何も起きなかった。
艦体を揺るがす重力震も、警報を鳴らす異常な放射線もなく、ただ静かに、レガンツィアは未知の宇宙を滑るように進んでいく。
「……空間異常、検知されません。放射線レベル、通常。重力場、安定しています」
索敵士の報告に、艦内から安堵の溜息が漏れそうになるが、艦長はそれを鋭い声で制した。
「気を抜くな。無人機も最初は無事だったはずだ。……外部通信の状況はどうだ?」
「……ノイズが激しくなっています。いえ、違います。通信そのものが……遮断されました」
[最初の異変:孤立]
通信士の顔が青ざめる。
後方に展開しているはずの母星系からのテレメトリー信号が、まるで刃物で断ち切られたように完全に途絶えたのだ。
「ジャミングか?」
「いえ、電波妨害の形跡はありません。ただ……『届いていない』んです。空間の性質が変化している可能性があります」
外部通信の途絶。それは、探査艦が広大な宇宙で完全に孤立したことを意味する。ここから先、何が起ころうとも、助けを呼ぶことはできない。
「……通信回復の努力は続けろ。引き続き、微速前進。感覚を研ぎ澄ませろ。何かある……確実に、何かが」
静寂の中、レガンツィアは外部との繋がりを絶たれたまま、暗黒の海をさらに深くへと進んでいった。息を潜めるように、ゆっくりと。
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数時間の航行は、乗組員たちの精神をじわじわと削り取っていった。外界からの通信が途絶した暗黒の海を、レガンツィアはただ沈黙を守りながら進む。
その時、コンソールのエラー警告音が、凍りついた空気を破った。
[闇に浮かぶ「光」]
「前方……光学的観測に反応。発光性ガス雲、あるいは小規模な星雲らしきものを捉えました」
オペレーターの声に、緊密な緊張が走る。漆黒一色の世界に、突如として淡い光の塊が浮かび上がったのだ。
[異常な観測データ]
〇 状況: 突然の出現。天体規模の星雲であれば、とっくに重力波を検知しているはずである。
〇 形状: 楕円形に広がった発光体の中央に、光を透過させない漆黒の「細い縦線」が走っている。
〇 構造: それはまるで、暗闇の奥からこちらを凝視する「動物の縦の虹彩」のようだった。
「……不気味な形だな。星間物質の偶然の揺らぎか?」
副長が不快そうに顔を歪める。だが、その楽観論は直後に打ち砕かれた。
[異変:瞬きする宇宙]
「……動いています! 縦線の幅が収縮、周囲の発光ガスが……閉じていきます!」
モニターの映像の中で、その「星雲」が上下から滑らかに覆い隠された。暗黒がその光を完全に塗り潰し、そして数秒後、再びゆっくりと開いた。
「バカな……。あれではまるで、『瞬き』をしている眼ではないか……!」
艦橋に戦慄が走る。それは天体現象などではなかった。直径数千キロメートル、あるいはそれ以上におよぶ、紛れもない「巨大な生物の眼球」そのものだった。
観測ログ:視線の交差
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項目〔対象の挙動〕
├状況: 焦点を本艦に合わせて固定
└予測: 我々の存在に完全に気づいている
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項目〔空間震動〕
├状況: 瞬きに同期して微小な重力波
└予測: 次の行動(接触)への予兆
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項目〔精神汚染〕
├状況: 乗組員に強い圧迫感と恐怖
└予測: 理性の限界
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「……反転離脱だ!!」
艦長の怒号が響き渡った。
「これが『答え』だ! 無人機が戻らなかったのは、これの視界に入ったからだ! 緊急反転機動開始!」
その瞬間、前方の巨大な「眼」が、先ほどよりも一層見開かれた。
それは、暗闇の奥に隠されていた、果てしなく広がる「白と黒の毛並みの輪郭」のほんの一部に過ぎなかった。
「主」は今、暗闇の中で見つけた「小さく光るおもちゃ(レガンツィア)」を、興味深そうにじっと見つめ返している。
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スラスターの咆哮が、レガンツィアの重厚な船殻を激しく震わせた。慣性制御の限界を超えた急速な方向転換に、大戦を生き抜いた装甲板が悲鳴のような金属音を上げる。
境界線への退路を目指し、緩慢に、あまりにももどかしく回り始める艦首。だが、その極限の旋回行動の中で、ブリッジの人間たちは見てしまった。
漆黒の宇宙背景を塗りつぶす、圧倒的な質量。数万キロメートルに及ぶ、柔らかそうな四つの円と一つの肉指。そして、星々をなぎ払うように優雅にうねる、果てしない長さの尾を。
「……見つかったのか?」
誰かの掠れた声と同時に、艦長が狂ったように叫んだ。
「遮蔽シールド、最大展開! 電磁波、熱源、可視光、すべての放出を完全に遮断しろ! 宇宙の塵に化けろ!」
レガンツィアは最大出力で隠密システムを作動させ、物理宇宙からその姿を消し去るようにして必死の逃走を始めた。
しかし、バックカメラが捉えた最後の映像の中。あの次元の深淵に潜む巨大な「瞳」は、まるで暗闇の中でかすかに動いた光るおもちゃを愉しげに見つめるように、じっと、彼らの逃走経路を追いかけていた。
はたして奴には、自分たちの必死の擬態が見えているのだろうか。それとも、すべてはただの気まぐれな「じゃれ付き」の始まりに過ぎないのだろうか。
探査艦はただ、その答えを知らぬまま、全速力で境界の向こう側へと逃げ伸びるしかなかった。




