第4話 帆走不能宙域
広大な宇宙海域を舞台にした、第10回記念「インターギャラクティック・スペースヨット・クラシック」。
数日間にわたる過酷な長距離航海を経て、ついに最終レグへと突入した先頭集団のヨットたちは、太陽風と宇宙海流を巨大なセイル(帆)に受け、限界寸前のデッドヒートを繰り広げていた。
華々しいスペーススポーツの最高峰。そのゴールを目前にした最終航路で、栄光を掴むはずのトップセーラーたちは、同時にその「異変」に気がついた。
「セイル圧、急激に低下! 太陽風が……止まった? いえ、消えました!」
先頭を走る俊英艇『スター・ブリーズ』の船上で、航海士が叫ぶ。宇宙ヨットは、星々から降り注ぐ光子やプラズマ流を効率よく捉えることで推進する。それが、前方の空間へ進むにつれて、まるで目に見えない壁に遮られたかのように完全に途絶したのだ。
先頭集団の混乱
〇 第1位『スター・ブリーズ』: 推進力を失い、慣性航行へ移行。セイルが力なく弛む。
〇 第2位『ファントム・ベール』: 異常を察知し、急制動をかけるも、不可解な「引き潮」に流され始める。
〇 第3位『レガッタ・エトワール』: センサーが前方に「質量ゼロ、体積無限大」という矛盾したデータを検知。
大会公式の自動中継ドローンも、この前代未聞の事態にカメラの焦点を合わせようと試みるが、配信映像には激しい砂嵐のようなノイズが混じり始めていた。
[最終海域の変容:巨大な「揺らぎ」]
トップ集団の5艇が、速度を落としながら互いに警戒し合う中、ゴールの宇宙ステーションが輝くはずのスカイラインに、あってはならない「影」が差した。
それは、光さえも吸い込む漆黒のグラデーション。だが、ただのブラックホールや星間物質ではない。その影は、不気味なほど滑らかな質量移動とともに、天頂に向かって左右均等に尖り立つ「二基の楔形の巨大構造」を、虚空へと突き立てた。
計器が捉えた「実体」
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観測項目〔空間の挙動〕
├状態:周期的に前後へ波打つ
└セーラーたちの解釈:何かが進行方向で「毛繕い」をしている
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観測項目〔音響ノイズ〕
├状態:超低周波の「ゴロゴロ」音
└セーラーたちの解釈:電磁誘導による、空間そのものの鳴動
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観測項目〔視覚的特徴〕
├状態:弧を描く巨大なシルエット
└セーラーたちの解釈:宇宙を横切る、あまりにも巨大な「尻尾」
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[競技の終わり、そして……]
「各艇へ! こちら『スター・ブリーズ』! レースは中止だ、今すぐ全セイルを畳め! 動くものは狙われる!」
トップ艇のスキッパー(艇長)が、全通信チャンネルで怒号を放った。経験豊富な彼らの直感が、目の前にある「影」の正体を、生物としての本能で理解していた。
彼らの目の前にあるのは、ゴールではない。
光子セイルの微かなきらめきを、まるで闇の中でひらひらと舞う「蝶々(おもちゃ)」か何かと勘違いして、じっと見つめている超次元の「巨大な顔」の輪郭だった。
数万キロメートル級の「耳」が、ぴくりと動く。
宇宙ヨットの美しく輝くナノセイルは、その気まぐれな存在にとって、最高の「じゃれ付き相手」に見えたに違いない。
その漆黒の影が、ゆっくりと前足を上げようとした瞬間、空間に凄まじい重力波のラフティングが発生した。スポーツの祭典は一瞬にして、巨大な「神の気まぐれ」から音もなく逃げ出す、決死のサバイバルへと変貌を遂げたのである。
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かくして、第10回記念大会は「勝者なし、先頭集団全艇リタイア」という、大会始まって以来の未曾有の結末を迎えた。
大会組織委員会が発表した公式声明によれば、原因は「突発的に発生した、予測不可能な局所的宇宙乱流」。あまりにも強力な重力波の乱れにより、トップ5艇のナノセイルは引き裂かれ、コースアウトを余儀なくされた――ということになっている。
[修正された航路]
翌年から、この最終海域は「航行危険区域」として競技コースから完全に除外されることとなった。運営側は「安全第一のための措置」と説明したが、その決定の早さは、かえって船乗りたちの猜疑心を煽る結果となった。
[船乗りたちの間で囁かれる「ワード」]
公式がどれだけ「乱流」と言い張ろうとも、命からがら生還したセーラーたちの口を塞ぐことはできなかった。場末の宇宙港の酒場では、夜な夜な奇妙な単語が飛び交うようになる。
〇 「宇宙毛玉」: センサーを埋め尽くした、光をも遮る黒い物質。
〇 「宇宙肉球」: レーダーが捉えた、5つの円からなる絶望的な質量塊。
〇 「じゃれ付き」: 乱流と片付けられた、破壊的な空間の揺らぎ。
「いいか、あの宙域のセイルは、奴にとっちゃ暗闇で振られる猫じゃらしと同じなんだよ」
退役したセーラーは、そう言ってグラスを傾ける。
[組織委員会の頑なな態度]
もちろん、競技会の開催本部はこれらの流言を「極限状態が生んだ集団幻覚であり、科学的根拠を一切欠くオカルト」として一蹴し続けている。
公式と非公式のギャップ
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項目〔コース変更の理由〕
├開催本部の見解(公式): 星間ガス密度の不規則な上昇
└現場の噂(非公式): 「主」の寝床を避けるため
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項目〔記録データのノイズ〕
├開催本部の見解(公式): 宇宙線による一時的な機材トラブル
└現場の噂(非公式): 巨大な「喉鳴り(ゴロゴロ音)」の電磁干渉
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項目〔消えたドローン映像〕
├開催本部の見解(公式): 乱流による物理的大破
└現場の噂(非公式): 「前足」で叩き落とされる瞬間が映っていたため
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[新たな怪異譚の誕生]
こうして、軍の精鋭艦隊から民間のセーラーにいたるまで、宇宙を駆ける者たちの間に共通の「怪異譚」が定着することとなった。
現在でも、その変更された旧コース付近を通過する船乗りたちは、自嘲気味にこう囁き合っている。
「速度を落とせ。セイルのきらめきを目立たせるな。……『奴』が起きちまう」
宇宙の深淵には、人類の公式記録が決して認めない、気まぐれで巨大な支配者が、今も静かに次の「おもちゃ」が通りかかるのを待っている。




