第2話 限界へのカウントダウン(1)
また別の宙域での物語
メインモニターの端で、薄氷のような遮蔽フィールドの出力グラフが、断続的なノイズと共に明滅している。
「遮蔽装置、エネルギー残量12%。熱排気が限界値を超えています。このままでは、あと180秒と持ちません」
オペレーターの報告は、死刑宣告に近い。サーグ艦隊は執拗だ。彼らの高性能パッシブ・センサーを欺くために、本艦はエンジンの出力を極限まで絞り、まるで宇宙に漂う残骸のように振る舞っている。だが、その代償として、艦内に排熱がこもり、電子回路は悲鳴を上げていた。
現状ステータス
〇 遮蔽維持時間: 02:58(推定)
〇 艦内温度: 42℃(上昇中)
〇 サーグ艦隊との距離: 方位2-8-0。距離12,000。緩やかに扇状の包囲網を形成中。
[デブリ・ベルト]
現在、本艦が潜んでいるのは「古戦場」と呼ばれる小惑星帯だ。センサーを乱すには絶好の場所だが、遮蔽が切れた瞬間に、熱源が暗闇の中の灯台のように浮かび上がることになる。
「サーグの追尾圏外まで……あと、どれほどだ?」
艦長が汗を拭いながら問う。
「デブリ・ベルトの端まで、通常加速で4分。しかし、加速すれば遮蔽が剥がれます。慣性移動のままだと……15分はかかります」
沈黙が重くのしかかる。
180秒後に「全裸」で放り出されるか、それともリスクを冒して「賭け」に出るか。
〇 強行突破: 遮蔽を解き、全エネルギーを推進機へ。一気に圏外へ脱出する。
└懸念: サーグ艦のレールガンによる狙撃を受ける可能性が高い。
〇 熱源偽装: 近くの大型デブリに接舷し、艦の熱を岩石に逃がす。
└懸念: 接舷時のマニューバを察知されれば、即座に座標を特定される。
「……サーグの連中め、獲物が窒息して跳ねるのを待っているつもりか」
艦長は唇を噛み、コンソールの戦術マップを睨みつけた。そこには、網を絞るように迫るサーグ駆逐艦の赤い輝点が、無慈悲に増え続けていた。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
奥の手を起動させるか? この試験艦に搭載されつつも、わが国では信頼性への懸念から実戦での使用例はない。
艦橋の空気が凍りつく。
「ヴォイド・シップ」モード。
船体を取り巻く全事象を「存在しない状態」へと上書きし、物理宇宙の因果律から一時的に離脱する――超次元遷移理論の究極形。
しかし、その実態は「自己消滅」と紙一重の危うい均衡の上に成り立っている。
船乗りの間には、こんな怪談まで残っている。
かつて各陣営が研究していた同系統の機構を、無人試験艦で作動させたところ――艦はその瞬間、「無」へと遷移した。
自動帰還プロトコルは、確かに組み込まれていた。
それにもかかわらず、その艦が再びこの宇宙へ姿を現すことは、二度となかった。
[禁忌の起動プロトコル]
艦橋に、短い沈黙が落ちた。
艦長はコンソールを見据えたまま、静かに命じる。
「……『ヴォイド・シップ』モード、起動準備」
一瞬、誰も動かなかった。
「全論理回路を虚数空間へ接続。次元遷移プロトコルを開始する」
「了解。『ヴォイド・シップ』モード、スタンバイ」
オペレーターの指が、二重ロックされた操作パネルへ伸びる。その手は、わずかに震えていた。
予想されるリスク
〇 事象の消失:帰還プログラムが0.01%でもバグを起こせば、本艦はこの宇宙から「最初から存在しなかったもの」として抹消される。
〇 観測者の喪失:乗組員の意識が希釈され、自分という個人の境界線が曖昧になる「自己崩壊現象」の発生。
〇 記録の欠落:無事に生還できたとしても、潜行中の記憶やデータがすべて「無」に書き換えられる可能性。
迫る限界:残り120秒
「遮蔽装置、限界。サーグ艦隊、アクティブ・レーダーへの切り替えを開始しました。……捕捉されるまで、あと70秒」
もはや、通常の手段でこの網を抜けることは不可能だ。サーグの駆逐艦が放つ冷徹なサーチライトのような索敵波が、デブリの影を一つずつ剥いでいく。
艦内ステータス
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項目〔遮蔽残量〕
├状態: 3%
└予測: 崩壊寸前
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項目〔虚数核エンジン〕
├状態: 臨界
└予測: 起動準備完了
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項目〔生存者数〕
├状態: 142名
└予測: 運命の選択待ち
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[虚無へのダイブ]
「……全乗組員へ、意識を強く持て。『自分はここにいる』と、それだけを考え続けろ」
艦長が、セキュリティ解除した操作パネルのボタンに指を置く。
船乗りの怪談は、時として真実を語る。無人の試験艦が戻らなかったのは、そこに「帰りたがる意思」がなかったからかもしれない。
「『ヴォイド・シップ』モード、起動! 座標固定解除、全事象を零点へ回帰させろ!」
次の瞬間、艦内のあらゆる色が抜け落ち、音さえもが「白」に染まった。
船殻の軋みも、サーグ艦隊のエンジン音も、そして時間の概念さえもが遠のいていく。
「……」
消えゆく意識の端で、なぜか聞き覚えのある何かの鳴き声を聞いたような気がしたが、それを確かめるべき「思考」さえも、今はただ、果てしない無の深淵へと溶け出していった。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー
気がつくと、見慣れた艦橋内の様子を見ていた。何の変化もない。
意識の輪郭が、解凍されるようにゆっくりと自己を再定義していく。
「……各員、状況を報告しろ」
パッシブ・センサーの画面から、サーグ艦隊の熱源反応がすべて消失していた。
いや、誤認だ。元の宇宙から隔離されたのは我々のほうだ。
今頃サーグの探査ビームは、我々が直前まで存在した宙域を虚しく走査しているに違いない。
外部センサーのログは、完全なゼロを指している。背景放射すら検出されない。通常の物理宇宙から完全に遮蔽されたこのトポロジー空間において、外殻の向こうには一体何が広がっているというのか。そして、この不連続状態を維持するためのエネルギー障壁は、あとどれだけ持ちこたえるのか。
「艦内全システムのステータスを監視し続けろ。微小な相転移でも見落とすな。閾値を超えたログは即座に共有しろ」
我々は本当に、未だ「存在」しているのだろうか。見慣れた計器類と隔壁だけが、我々の質量と生命の連続性を辛うじて証明している。
その時、観測センサーが狂ったような警告音を鳴らした。
あり得ない。完全な「無」の領域で、外部からの観測データだと?
総員に戦慄が走る。本来なら数学的に記述できないはずの超次元の歪みを、観測システムがエラーを吐きながらも強引に3次元マッピングへとレンダリングしていく。
メイン・スクリーンに投影されたのは――超巨大な、肉球だった。
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[絶望的な可視化]
「計算不能です! センサーが……センサーが壊れています! こんなものが、この世にあるはずが……!」
オペレーターが絶叫に近い声を上げる。メインスクリーンに映し出されたのは、数千キロメートルにも及ぶ、あまりにも柔らかそうで、あまりにも巨大な「四つの円」と「一つの大きな肉指」のシルエットだった。
観測データ:非存在領域の異常
〇 対象の形状: 解剖学的に「ネコ科の掌(肉球)」に99.8%一致。
〇 エネルギー性質: 「虚無」を物理的に押し退ける、圧倒的な「存在感」の放射。
〇 物理接触: 我々の艦の周囲にある「無」の空間が、その巨大な指先によって、まるで『つつかれて』いるように波打っている。
[存在の危機]
「艦長、『ヴォイド・シップ』モードの安定性が急速に低下しています! 外部からの……物理的な『ちょっかい』によって、因果律の境界が破れそうです!」
サーグ艦隊から逃れるために潜り込んだ「無」の領域は、絶対の安全圏ではなかった。そこは、この宇宙のスケールでは到底測り得ない、超次元的生物の「遊び場」だったのだ。
艦内モニタリング報告
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箇所〔虚数核エンジン〕
├状況: 外部の「ワクワク感」に共鳴し、過熱
└危険度: 極高
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箇所〔船殻強度〕
├状況: 指先が触れるたびに空間ごと歪んでいる
└危険度: 警告
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箇所〔乗組員の精神〕
├状況: あまりの不条理に脳が理解を拒否
└危険度: 崩壊寸前
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[「飼い主」の不在]
「……あの時、何かの鳴き声を聞いた気がしたのは、これの前触れだったのか」
1000km級の肉球が、本艦が潜む「次元の泡」を、まるで床に落ちたビーズでも転がすように弄んでいる。
「このままでは、我々は『無』の中で遊び殺されるぞ。サーグ艦隊に捕まる方が、まだ物理学の範疇で説明がつくだけマシだ……」
[緊急発令]
「帰還プロトコル起動! 因果律の重りを最大まで戻せ! どんなにサーグが待ち構えていようと構わん、この『玩具箱』から脱出するぞ!」
その瞬間、外部から空間が圧縮されるような衝撃音が響いた。
巨大な肉球が、この艦を「捕獲」しようと、虚空を握り込んだのだ。
「強制遷移開始! 戻れ! 我々の知っている、残酷で、冷たくて、猫のいない宇宙へ!」
艦体は凄まじい衝撃と共に、光なき「無」の底から、弾かれるように元の次元へと跳ね返った。




