第1話 虚無の底への潜航(2)
承前
司令室に流れる冷や汗は、もはや恐怖というより、あまりの不条理に対する防衛本能に近いものだった。
乗組員たちは、外部センサーが映像化した異形を呆然と見つめた。
巨大な「瞳」がこちらを見つめている以上、もはや一刻の猶予もない。猫という生き物は、動くものにこそ反応する。それが宇宙を揺るがす次元生命体であっても、その本質は変わらないはずだ。
[隠密回頭:音なき旋回]
「補助モーター、極低速回転。左120度に回頭開始……」
艦体は重厚な軋みを上げ、3000m級の「瞳」の前でゆっくりと艦首を旋回する。全乗組員が、呼吸をすることすら忘れたかのような静寂。
[離脱プロトコル]
〇 熱源遮断: 廃熱ラインを完全に閉鎖。艦内温度がじりじりと上昇し始める。
〇 回頭角度: 15度……45度……90度……
〇 外部モニター: 巨大なシルエットが、首を傾げるようにわずかに傾いたのが見えた。
[迫り来る二つの絶望]
「回頭完了。左六〇度にゴラール艦隊の索敵波を感知……距離、急速に縮まっています」
「構わん。このまま『猫』の視界から外れるまで微速前進だ。ゴラールがこちらを捉えた瞬間、彼らもまた、あの『怪物』の玩具箱に入れられることになる……」
艦長の言葉を裏付けるように、次元の壁を超えて、ゴラール帝国駆逐艦が放ったアクティブ・ソナーの強烈なパルスが艦を揺らした。
相関図
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勢力〔本艦〕
├位置: 中間領域
└状態: 急速離脱
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勢力〔巨大質量(猫)〕
├位置: 右舷1600
└状態: 興味津々。尻尾(次元断層)が揺れ始める
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勢力〔ゴラール艦隊〕
├位置: 左舷5000
└状態: 獲物を追い詰めたと確信し、加速中
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[次元爆雷の残響]
その時、ゴラール艦が、あろうことか威嚇のための次元爆雷を投下した。
ドォォォォン……!
真空に近い次元の狭間を、強烈な衝撃波が伝わっていく。
司令室の全員が、同じタイミングでモニターを振り返った。
その衝撃音は、深い微睡みの中にいた巨大な「猫」にとって、最高に耳障りな、あるいは最高に「遊び心をくすぐる」呼び鈴となった。
「にゃあ……ん?」
先ほどまでの甘えた声ではない。今度の声には、好奇心という名の暴虐が混じっていた。
「……急速浮上!全速離脱! 遮蔽シールド全開! ゴラール艦隊を身代わりにして、ここから脱出するぞ!」
艦長の叫びと同時に、背後で宇宙そのものが「弾ける」ような音が響き渡った。
センサーには、ゴラール艦隊の輝点が、まるで「転がる毛糸玉」を追いかける子猫に翻弄される羽虫のように、無秩序な軌跡を描いて逃走していく様子が映し出されていた。
凄まじい次元ノイズとともに、それをもみ消すような「ゴロゴロゴロ……」という、惑星をも震わせる重低音の喉鳴りが響いてくる。
「全エンジン、出力全開! 深度80まで一気に浮上する!」
艦長の怒号に近い指令が飛び、艦体は強烈な加速Gに包まれる。もはや敵のソナーなど知ったことではない。あの「気まぐれな神」の視界から、一秒でも早く消え去ることだけが全乗組員の願いだった。
艦内ログ:脱出シークエンス
〇 次元エンジン: 出力120%超過。安全リミッター解除。
〇 背後観測: ゴラール旗艦が巨大な「前足」に薙ぎ払われ、後方宙域へ弾き飛ばされていくのを確認。
〇 精神状態: 乗組員全員、極度の緊張からの解放と、「何を見せられたのか」という虚脱感が混在。
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[報告書の検討(改竄会議)]
「……本部への戦闘報告書、どうしたものか」
正直に「巨大な猫に遭遇し、ゴラール艦隊がじゃれつかれて壊滅した隙に逃げました」などと書けば、帰投と同時に精神鑑定送りにされるのは目に見えている。
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項目〔敵艦隊の行方〕
├実際: 猫のペチンで壊走
└報告書案: 強大な次元乱流に巻き込まれ撤退
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項目〔会敵した物体〕
├実際: 超巨大エネルギー生命体(猫)
└報告書案: 局所的な次元崩壊に伴う高質量特異点
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項目〔確認された音響〕
├実際: 「にゃーん」
└報告書案: 空間断裂時に発生する特有の共振音
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「よし、これでいこう。『未知の特異点による磁場嵐』だ。それなら誰も文句は言わん」
艦長は深く椅子に背を預け、冷え切ったコーヒーを一口啜った。
[帰路の静寂]
「深度50……通常空間との接続を確認。次元潜航終了。これより帰投進路に入ります」
司令室にようやく安堵の色が広がる。
しかし、メインスクリーンの隅には、まだあの巨大な「瞳」の残像が焼き付いているような気がしてならなかった。
宇宙は広い。
深海よりも深い次元の底には、人類が知るべきではない、そして言葉にすべきではない「怪異」が、今日も気まぐれに星々を転がしているのかもしれない。
「……もうこの先、決して猫は飼わんぞ」
誰かの小さな呟きが、静まり返った司令室に空虚に響いた。




