第1話 虚無の底への潜航(1)
宇宙には潜望鏡のレンズを叩く水滴は存在しない。あるのはただ、計器の針が刻む無機質な振動と、船殻を軋ませる次元圧の呻きだけだ。
「潜航深度350を維持」
乾いた声が、司令室の金属壁に冷たく吸い込まれていった。外部モニターに映し出されているのは、深海よりもなお暗い、色彩の死滅した「空隙」の世界だった。この深度まで来れば、物理法則は希薄な霧のようなものに過ぎない。
艦内の状況
〇 次元圧計: 指針は限界領域の直前で小刻みに震えている。
〇 外部視界: 観測センサー映像に、時折、本来存在しないはずの光が火花のように瞬く。
〇 空気: 循環系の限界により、金属の錆びたような匂いが混じり始めている。
[観測される異常]
「深度、352……353。重力勾配に乱れ。前方に未確認の質量反応を感知しました」
オペレーターの指先がコンソールの上を走る。
通常、この深度に実体を持つ物質が存在することはあり得ない。だが、ソナーが捉えた波形は、確かに何らかの「形」を形作っていた。
それは、巨大な鎖のようにも、あるいは沈みゆく古城の影のようにも見えた。
潜航記録
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項目〔現在深度〕
├数値/状態: 355
└備考: 未踏領域に突入
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項目〔次元安定性〕
├数値/状態: 62%
└備考: 船体の歪みが許容値に接近
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項目〔外部温度〕
├数値/状態: 測定不能
└備考: 熱力学が機能していない
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[闇の中の決断]
艦内の照明がエネルギー低下により、ゆっくりと明滅を繰り返す。
350という数字は、かつて人類が「ここが世界の果てだ」と定義した境界線だった。しかし、目の前のモニターが映し出す光景は、その先にもまだ、底知れぬ暗黒が続いていることを示している。
暗闇の中、艦内に残っているのは、自らの心臓の鼓動と、外部からのアクティブ・ソナーが船殻を叩く忌々しい響きだけだ。
「……ゴラール艦、依然として本艦を追尾中。方位0-4-0。距離、徐々に縮まっています」
オペレーターの声は、極度の緊張でかすれている。昨夜の爆雷攻撃で、第3予備電源と右舷の次元バラスト・タンクが損壊した。次に至近距離で爆雷の直撃を受ければ、この艦は歪みに耐えきれず、瞬時に次元の塵へと還元される。
現状の選択肢
〇 現状深度を維持して隠密行動:
├エンジンの出力を最小限に抑え、敵のソナーが外れるのを待つ。
└リスク:敵の掃射範囲が広いため、捕捉されるのは時間の問題。
〇 深度350を超えての超大深度潜航:
├ゴラール帝国の現行兵器では到達不能な領域へ逃げ込む。
└リスク:船体強度が未知数。次元崩壊により、二度と「元の宇宙」へ戻れなくなる可能性が高い。
〇 反転攻勢:
├一か八か、次元魚雷を全門発射し、敵艦隊の包囲網に穴を開ける。
└リスク:位置が完全に露呈し、集中攻撃を浴びる。
[極限の判断]
艦長は、手もとのコンソールのモニターを睨みつけた。
画面には、追いすがってくるゴラール帝国駆逐艦の影が赤く点滅している。彼らは獲物を追い詰める猟犬のように執拗だ。
「深度350は、もはや安全圏ではないか……」
艦内ステータス
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システム〔次元装甲〕
├状態: 歪み発生
└損耗率: 38%
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システム〔推進機関〕
├状態: 過熱気味
└損耗率: 15%
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システム〔生存維持〕
├状態: 炭酸ガス濃度上昇
└損耗率: 22%
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[決断の刻]
「これより、深度400への潜航を開始する」
その言葉とともに、船体は一段と高い金属音を上げ、さらに深い「無」の層へと沈み込んでいった。
「記録がないということは、死んだということだけではない。誰も見たことがない場所へ行くということだ」
艦体は悲鳴のような軋みを上げ、艦首をさらに下方の「無」へと向けた。メーターの数字が360、365、370と、人類が一度も目にしたことのない領域へと加速していく。
頭上で、ゴラール帝国艦の放った次元爆雷が炸裂した。だが、その衝撃波すら、深すぎる次元の泥濘に飲み込まれ、徐々に遠くなっていく。
「深度380通過。……静かだ。ソナー音、消失しました」
外界の騒音は消え、そこにはただ、冷徹なまでの静寂だけが広がっていた。
沈黙が艦内を支配する。補助灯の淡い光だけが、乗組員たちの青ざめた横顔を照らし出していた。エンジンの微振動すら消えた今、この空間には「存在の重み」だけが満ちている。
「深度390通過。……。深度400……到達しました」
[沈黙の対峙]
「機関停止。全慣性制御、オフ」
推進器の唸りが消え、艦は次元の海に漂う一片の木の葉となった。頭上の追跡者からは逃れたが、眼前に横たわる「何か」は、爆雷よりも根源的な恐怖を突きつけてくる。
[センサーが捉えた異形]
距離2000。次元潜航において、この距離は至近距離に等しい。
コンソールに映し出される波形は、およそ自然界の物質とは思えない歪な曲線を描いていた。
質量特性: 惑星一個分に匹敵する重力源。
エネルギー放射: 測定不能。ただし、非常に周期的なパルスを観測。
視覚的観測: モニターのノイズの隙間に、一瞬、複雑に絡み合う「鎖」のような構造体と、虚空を睨む「瞳」のような光点が映り込む。
[狭間の領域]
「……艦長。前方の質量反応、動いています」
オペレーターが声を殺して報告する。
「こちらを認識しているのか、あるいは潮流に流されているだけなのか――。いえ、違います。これは……周期的に膨張と収縮を繰り返しています!」
ー ー ー ー ー ー ー ー
「操艦と生命維持に必要な最低限の電力以外、すべて遮断しろ」
艦長は命じた。
今、この艦が発する微かな電磁波すら、前方の存在を目覚めさせる「光」になりかねない。
司令室で、乗組員たちはただ祈るようにモニターを見つめる。
巨大な影が、ゆっくりと、だが確実にその輪郭を明瞭にしていった。それは、太古の高度文明が遺した最大級の遺棄物なのか、それとも次元の底で独自の生態系を築いた捕食者なのか。
「息を殺せ……。我々は岩だ。ただの、冷たい、命のない岩だ……」
その時、静寂が支配していた司令室に、その音はあまりにも鋭く、そして致命的なまでに「日常的」な響きで入り込んだ。
誰もが耳を疑い、隣の席のオペレーターと顔を見合わせる。だが、コンソールに表示された音響解析グラフは、今の音が幻聴ではないことを無慈悲に証明していた。
[異常事態: 正体不明の音]
「にゃーん」
二度目。今度は先ほどよりもはっきりとした、甘えるような鳴き声。それが次元潜航艦の制御コンソールのスピーカーから、ノイズ一つなく流れ出した。
[直ちに走る緊張]
索敵士: 「前方質量に変化! 不明音に同期して、エネルギー波形の変化が……」
艦内: 全員が完全に硬直している。深度400での極限状態、未知の巨大質量、そして猫の鳴き声。脳が処理を拒否する情報の羅列。
[質量反応の変容]
その「声」が響くたびに、前方2000に位置していた巨大な影に変化が現れた。
レーダー上の無機質な質量塊が、ゆっくりと形を変えていく。複雑に絡み合う次元の鎖だと思われていたものは、今や巨大な「尻尾」のように緩やかにうねり始めた。
「まさか……今の音が、あの『怪物』と共鳴しているというのか……?」
艦長が戦慄しながら呟く。
[艦内のパニック]
「艦長、見てください! メインスクリーンを!」
オペレーターが指差す先、外部モニターのノイズが晴れ、一瞬だけ「それ」の真の姿が映し出された。
次元の断層に横たわるのは、星々を飲み込むほどに巨大な、だがどこからどう見ても「猫の耳」の形をした漆黒のシルエット。
そして、その巨大な質量が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
3000メートル級の「瞳」が、次元潜航艦の微かな熱源を、まるで転がる毬を見つけたかのように捉えた。




