7.待ち伏せていたのは闇の獣
まだ夜明けを迎えるにはほど遠い夜闇のなかをリリスは足音も立てずに疾走する。ペトルの家までは宿からそれほど離れていない。走る速度は人の足よりもはるかに速く、さほど時をかけずに到着した。
そっとあたりを窺うリリスの耳にペトルのものらしき悲鳴や罵声が突き刺さる。目を凝らすと、そこには闇のトンネルができており、ペトルの部屋を通過して路地の奥へと伸びていた。
「どう見ても最初からペトルだけを狙ってきたとしか思えないわね」
こちらの行動が筒抜けなのか。もしくはリリスとゴドフリーの存在は無関係なのか。
「そういえば私たちと合う前にすでに接触していたのよね」
そうなれば計画的な犯行ということか。
むしろ先の襲撃目標はペトルではなく、邪魔をされないように吸血鬼二人を排除しようとした結果だったのかもしれない。
リリスは改めて周囲の気配を窺う。音もなく移動している闇のトンネル以外には魔の気配は無さそうだ。意を決してそのなかへ身を投じた。
闇のトンネルのなかでは、本来であれば通行の妨げとなる建物や家具などは障害物となり得ない。なかから外はぼんやりと見えているけれど干渉はできない。その代わりに素通りできる。闇のトンネルの両端は、通常のトンネルと同じようにただ口を開けているだけで、そこから出入りは自由にできる。だが途中で抜けるためには扉を取り付けなければならない。途上で見つけたただひとつの扉は、案の定ペトルの部屋のなかに出られるように設置されていた。
古来より扉は特別なものとして扱われる。建物などをないものとして通り抜けできる闇のトンネルではあったが、ただひとつ、扉だけは干渉を受けてしまって本来の役目を果たせなくなるため避けて築かれる。闇のトンネルがくねくねとしているのは扉を避けているからだ。そうはいってもただくねくねと曲がっているだけで襲われることもなければ人目に触れることもない。
残念ながらリリスにはこの闇のトンネルを築く力はなかったが、使い方に限って言えば知識はもちろん、他人の築いたものを利用したことならある。
このなかでは罠を仕掛けることはできない。またわざわざ誰かに待ち伏せさせて襲いかからせるといったことも不合理なためにおこなわれることもない。ここから出てから攻撃したほうがはるかに戦いやすいからだ。狭いからというのもあるが、魔の力を吸い取ってしまうので物理攻撃しか使えない。であれば攻撃の方法さえ吟味すればいいと思いがちだがそれもできなかった。
この闇のトンネルは、築くという表現を使いはするものの実は魔生物で、体内では死傷の可能性のある争いごとはおこなわないという条件で契約を結んだ魔属だけが必要に応じて築くことができる。いったん築かれた闇のトンネルは契約者以外でも使えるが、そのなかで攻撃行動を起こしてはならないということは変わりない。破れば闇のトンネルに報復されるからだ。誰だっていきなり外に弾き飛ばされて建物の壁のなかに埋め込まれたくはないだろう。
だから注意しなければいけないのはこの闇のトンネルから出るときだ。
ふと妙な気配を感じて顔だけ後ろに向けてみれば、リリスが入ってきた側の出入り口が背後に迫っていた。これは契約者が定めた目的地に到着して闇のトンネルが消えようとしているということ。リリスは舌打ちをして衝撃に備えた。直後には盛大に突き飛ばされるようにして前方の出入り口から吐きだされていた。勢いはなかなか殺しきれず、リリスはなすすべもなく床を転げていく。そんなリリスに向かって闇の獣たちが襲いかかっていった。
「く……ッ」
取りだした闇色のタガーで応戦するも、すべての牙や爪から身を守ることはできず、あっという間に体中が傷だらけになってしまった。目や首などといった致命傷となりかねない部位への攻撃をそらせるだけで精一杯といったところだ。それでも吹き飛ばされた体がようやくその法則から逃れることを得ると、リリスはすぐに立ち上がってタガーを構えた。
最小限の動きだけで攻撃をよけながら深呼吸をして呼吸を整えると、体の奥底に溜めて隠していた魔力をいっきに解き放って体中に巡らせる。腕を伝って指先までかけていった魔力は、その先にまで至るとタガーに重なるようにして魔力製の闇の剣を生んだ。見ているものにはあたかも刀身が伸びたように感じられる光景だっただろう。執拗に飛びかかってくる闇の獣を、その剣で次々と切り捨てていきながら、リリスは状況を確認した。
闇の獣はその身のどこかに主の印を持つ。今ここにいるすべての闇の獣の額には、白抜きでもしたかのようにそこだけ逆さまになった王冠の印があった。
「崩壊……」
不吉な占いでも目の当たりにしたかのように、リリスは眉間におもいっきりシワをよせた。
「不吉というより悪趣味ね」
闇のものを相手取るには、闇の武器を。それは必然であれど、必ずしもそれだけで退治ることができるわけではない。事実切り捨てても切り捨てても、闇の獣は不自由な姿に成り果ててなおリリスに襲いかかってくるのだ。もちろんその分動きは遅くなっているが、数で攻めてこられるとなかなか侮れないものだ。
いったい何頭いるのか。数えることは放棄して疲れたように――というよりはうんざりしたように息を吐きだし、つうーっと額から流れてきた血を袖で乱暴に拭き取る。
それでも少しずつ効果は現れている。敵の数が多いうえに動きが素早い獣を相手にしなければならないということで、まず動きに枷をつけることから始めることにしたのだ。このくらいであれば、と静かに息を吸い込んで剣を握り直した。一拍ののちに駆けだす。細かい作戦など考えるだけ無駄とばかりに、彼女は手近にいる獣から順に額にある印を切りつけていった。小さな印ではあるが先に動きを鈍られておいたのでどうにか対応できる。多少の傷であれば避けずにひたすら屠ることを優先する。リリスの体にいっきに傷が増えていったが深いものはなく、確実に闇の獣の数を減らしていった。
(残り二頭)
リリスは肩で息をしながら対峙している闇の獣に剣先を向けた。改めてグッと剣の柄を握りしめて一歩踏み出そうとした。だがそれを阻むように突然背後から剣を持つ右腕に飛びかかってきたものがいた。
「きゃっ、な、なに?」
思わず声をあげて顔を向ける。彼女に飛びかかってきたのは、ずっと隅でうずくまっていたペトルだった。
「あなたなにをやってるのよ。はなしなさいっ」
それだけ叫んだリリスは素早く視線を前に戻したのだが、その時にはすでに二頭の獣はすぐ目の前に迫ってきていた。舌打ちをこらえて、即座に体をひねると左腕でペトルを抱えるようにして横に跳ぶ。吸血鬼の口から声にならない悲鳴がほとばしる。さすがに人一人抱えた状態では爪を避けきれずに背中に深い傷を負ってしまったのだ。
「……んの、バカ! いったいどうしたのよ!」
叫んだリリスはそこでようやくペトルの眼を正面から見た。こんどこそ盛大に舌打ちした。
「まったく、たちが悪いわ。悪すぎるわ」
ペトルの眼は焦点が合っていなかった。それは操られているということ。意識ごとなのか体の動きだけなのかまではわからないが。
リリスは体を使ってペトルを押さえ込んで、右手で握っていた剣を左手に持ち替えると体をひねりながら背後に向かって勢いよく剣を振り切った。気配だけを頼りに振るった剣先は、飛びかかってきていた獣の額をみごとに切り裂く。引き寄せた左腕を今度は突き出すようにして最後の一頭の額に突き立てた。印を傷つけられた二頭の獣は即座に霧散した。
あたりを見渡してすべての闇の獣が消えたことを確認したリリスは、ペトルを見下ろした。虚ろな眼差しに、意志は未だに戻ってきていないようだと悟る。
「ペトル」
呼びかけてみたものの、無駄であろうことは彼女もわかっていた。諦めたようにため息をひとつつくと、ペトルの首筋に牙を立てた。流れこむ血を飲み――即座に吐きだす。
「まずい!」
ゲホゲホと咳き込むようにして今しがた飲んだペトルの血をすべて吐きだすと、袖で口元を拭った。
「想像以上にまずいわね」
血をいくらか飲んではえずいてすべて吐きだし、飲んでは吐きだしを繰り返す。
「まったく……、ここまで、まずいなんて……、どんな拷問よ」
上体を起こしたリリスが、馬乗りになっていたペトルの体の上から横に移動する。息も荒く疲労困憊だ。飲んだものを吐きだすという行為はそれだけ体力を使うということだから仕方が無いとはいえ、文句くらいは言いたくなる。だがその甲斐あってペトルの口からようやく言葉が発せられた。そうとう凹んでいるらしく拗ねた響きもはらんだ弱々しいものではあったが。
「そんなにまずいまずいって言わないでください。けっこう傷つくんです、それ」
「仕方ないでしょう。私が今あなたから吸い取ったのは血じゃなくて毒なんだから、まずくてあたりまえなの」
「毒!?」
「そうよ。あなた闇の獣に噛まれなかった? そのときに意志を奪う毒を入れられたのよ」
見る間に顔を青ざめさせるペトル。リリスは手をひらひらと振った。
「だから今吸い取ったって言ったでしょう。もう残っていないわよ」
「あ……、えっと、……ありがとう。でもそれなら飲まずに口に含むだけで吐きだせばいいのに……」
「……」
言葉もなく瞠目する。言われて初めて気づいた。吸血鬼は血を飲むことしか考えていなかった。どうしても吐きだしてしまうような毒なら、飲み込まなければよかったのだ。リリスは重くなった気のする頭を支えるように手をあてた。その姿にペトルはおどおどしながらそっと声をかけてきた。
「あの……余計なお世話でしたか?」
「あ、いえっ、いいのよ。今度からそうさせてもらうわ」
「はい。それから……ごめんなさい」
「なにが?」
「助けてもらったのに、あの、化け物、とか、言っちゃったし、なにもわからないのに、責めたりした、し……」
そうとうばつが悪いのだろう。ペトルの視線はせわしなく空をさまよう。
「もういいわよ」
リリスは少年の発言を手で振り払うように動かして、言葉だけでなく態度でもこれ以上の謝罪は必要ないことを示した。
「そんなことより、ブロルの家に行きたいのだけど、案内してもらえるかしら?」
唐突な言葉にペトルは思考が追いついていないのか、不思議そうな顔でしきりにまばたきを繰り返した。
「ブロルの家?」
「そう」
「どうして?」
「彼もあなたと同じように襲われたから。あちらにはレイが向かったけど、私はブロルの家を知らないの」
どうにかペトルは奪い返した。あとはゴドフリーに合流してブロルがどうなったのか確認する。まだであれば彼女も手を貸さないとならない。ゴドフリーのほうには、リリスたちを襲ったあの白髪の青年がいるはずである。こちらに闇の獣しかいなかったということはそういうことだろう。早めに応援に行ったほうがいいに違いない。
ペトルはやや俯き加減で葛藤していたようだが、やがて拳をぎゅっと握り締めると顔を上げてまっすぐにリリスを見返してきた。
「わかった。ブロルの家まで案内する」
「頼んだわ」
うなずいて立ちあがろうとしたところでリリスは小さくうめき声をもらした。
「どうしたの?」
「まだ塞がりきっていない傷がちょっとうずいただけ。行きましょう」
「え? でもそれって大丈夫なの? ゴドフリーさんだっけ? あの人のところに行ったとして、まだ戦ってる最中かもしれないのに、そんな体で手助けできるの? 足手まといじゃない?」
「ちょっと血が足りなくて治りが遅いだけよ。大丈夫。人間と違ってこのくらいならたいしたことないわ」
「あ、じゃあ、僕の血を……」
血が足りないといったリリスの言葉に反射的に言ってしまったのだろう。自分の血を飲むように勧めるペトルの声は、けれど途中でその勢いを失っていった。
「どうぞと言いたかったんだけど……、まずい血は飲みたくないよね」
恥じるように目をそらすペトルに、リリスは近づいて手を伸ばした。
「飲んでいいの?」
「はい。あ、でも……」
ぐだぐだと言い訳を続けようとするペトルの口に人差し指をあてることで止めたリリスは、もう一方の手を肩へとおいた。
「届かないわ。少し屈んでくれる?」
「う、うん」
ゆっくりと腰をかがめるペトルに合わせるように、彼女も首筋へ顔を寄せていく。軽くついばむように唇で触れると、体が大げさなほどに跳ねた。
「本当にいいの?」
あまりの怯えっぷりに吸血鬼はいったん体をはなしてペトルの顔を覗きこんだ。少年は無言でうなずく。ならばとリリスは今度こそペトルの血をすすった。
ゴドフリーが血抜きをし、リリスが毒抜きをした。そうしてペトル自身も己の所業を反省して心を入れ替えようとしている。だからだろう。今のペトルの血はそれほどまずくはない。もちろんおいしいといえる味には程遠いが、いつかそうなる日がこないとも限らない。そう思わせるほどには良くなっていた。
一番やっかいだった背中の傷が塞がったところでリリスは口をはなした。
「ありがとう」
「もういいの?」
「ええ。おかげで傷も塞がったわ」
ホッとしたように胸をなで下ろすペトルを促して、今度こそブロルの家に向かった。




