3.時間を確認
プラチナブロンドの少年ブロルは濡れた髪や顔をざっとハンカチで拭うと、自身を見下ろした。身に着けているのは白い半袖のTシャツに水色のジーンズ。コップの水をかけられたのは主に顔だったので、洋服のほうはさほど濡れていないようだ。薄い色だったこともあり、多少濡れていてもさして目立ちはしないだろう。もっともかけられた水の量がコップ一杯分と少なかったおかげもあるのだが。
それはさておき。
「どうして水をかけられたんだろう?」
ポムラースカを使って女性のお尻を叩けるのは午前中だけだと教わった。午後に叩こうとすれば水をかけられるとも。ブロルは腕時計で時間を確認してちょっとだけ小首をかしげる。けれどすぐにまっすぐに前を向いて歩き始めた。
ちらりと視線を上に向ければ突き抜けるような青空。四月にはいったばかりではあるが、ブロルは寒さには慣れているし、そもそもブロルを含めて十代くらいの子供は今ぐらいの時期になれば外に出るときも半袖のことが多い。今日のように晴れて暖かな陽気になればなおのこと。
ベリコノッツェは毎年開催期間が異なる。三月上旬に開催の場合であればまだしも、今年のように四月に入ってからおこなわれるのであれば、地元の人間はすでに身軽な服装へと衣替えを済ませている者が多い。期間中に冬の装いのままの人間は、だいたいが観光客と相場が決まっている。ここより暖かい地域から観光に訪れたものにとってはもちろん防寒のためだが、仮に着たままでは暑いと思っていても荷物になることを嫌がってそのままにしている人もいるからである。そうした観光客でさえ楽しそうに歌いながらポムラースカを使っているところを、ブロルは遠目で眺めながら歩いて行く。
やがて目的のアパートにたどり着いたブロルは、通りに面した扉をくぐって廊下を進み、ひとつのドアをノックした。玄関扉から顔を出したのは目的の少女だった。二度目であってもやはりこのセリフを口にするのは恥ずかしい。ブロルはそんなことを考えながら、口を開いた。
「やあミレナおはよう、今日のパンツは何色だい?」
ブロルの訪問を嬉しそうに迎えていたミレナはその瞬間、ブロルをにらみつけて、そばにおいていたコップの水をブロルの顔に向かってかけてきたのだった。
「え?」
ブロルのつぶやきなど聞こえていないとばかりに、扉が大きな音を立てて勢いよく閉められた。
「僕がほしいのは水じゃなくて卵なんだけどなー」
後頭部に手をあてて軽くなでさする。しばらくして大きく息を吐きだしたブロルは、顔だけをざっとハンカチで拭うと通りに出て次の家へと向かった。顔を拭っただけなのでブロルの髪はまだ濡れている。そんな姿を、玄関に現れた栗毛の小柄な少女は怪訝そうに眺めながらもブロルの訪問を喜んでいたようだった。ブルーの瞳が期待に揺れる。けれど。
「おはようイヴェタ、今日のパンツは何色だい?」
ブロルがそう言ったとたん、イヴェタは傷ついたように唇をかみしめて、やはり水をかけてきた。
「ブロルなんてもう知らない。二度と話しかけてこないで!」
叫びながら閉ざされた扉。イヴェタの声はわずかに震えていた。さすがにこれにはブロルは慌てた。すぐさま扉に取りすがる。
「ちょっと待ってイヴェタ。どうして泣いてるの? 僕なにかした?」
「なに言ってるのよ、今したじゃない。女の子にそんなことを訊くなんて失礼よ」
イヴェタはまだ扉の向こうにいたらしい。とりあえずいらえがあったことにホッとしつつ、ブロルは誤解をとこうとした。
「だってそういう決まりなんでしょう?」
「そんなわけないじゃない!」
「だって僕ペトルにそう教わったよ?」
「……ペトルに?」
「うん、そう。だって僕にあれこれ教えてくれるのはペトルしかいないんだし……」
二人のあいだに沈黙が横たわる。脳裏に思い描くのはどちらも、ゴールデンブロンドでクラスと転校生のまとめ役を務めるペトルの姿だ。父親の仕事の関係で短期間で住まいを移動するブロルに友達と呼べる存在はいない。だからブロルはどこの学校でも担任教師が指名したまとめ役に教わるしかなかった。もちろんクラスメイトと話はする。まとめ役がそばにいなければ近くにいるクラスメイトに自ら声をかけて教えを請うこともあれば、話しかけられて会話を楽しんだり、ゲームで遊んだりもしたが、いずれも数合わせのその場限りで一時凌ぎな付き合いでしかない。
クラスメイトは、ブロルが数カ月前に転校してきた生徒だと知っていても、だからこそベリコノッツェについての知識がないということまでは思い至らなかった。なぜなら復活祭は世界各地でおこなわれているからだ。復活祭は珍しくなくとも、ポムラースカを使ったイベントはチェコだけだということに気づいていないものが多い。自分たちにとってはあたりまえのことすぎて考えつかないのだ。なまじ観光客でさえどうすればいいのか知っているものだから、よそからきたブロルも当然知っているものと思い込んでいたともいえる。
カチリとドアの鍵が開けられた音がブロルの耳に届いた。ブロルが扉から手をはなして数歩さがると、玄関扉がゆっくりと開いてうつむいたイヴェタが姿を見せた。
「詳しく聞かせてくれる?」
どうしてこういうことになったのか。順をおってちゃんと話して欲しいというイヴェタ。ブロルはすぐに承諾して、先を歩くイヴェタについていった。
いつもは編みこまれているイヴェタの髪は今日はおろされていて、歩きにあわせて小さく揺れている。チェコの民族衣装の面影をかすかに残すバルーンスリーブの白いブラウスにかかる栗毛は、日差しを浴びてよりいっそうその動きをブロルに知らしめた。見慣れない姿に落ち着きの悪さを覚えながらも視線をそらせることができず、ブロルはただイヴェタの髪に引かれるようにして歩いた。
イヴェタが足を止めたところは人の少ない川岸の木陰だった。二人はあいていたベンチの一つに腰掛ける。
「それで……、どうしてあんなこと言ったの?」
パンツの色をたずねるだなんてブロルだって恥ずかしかったのだ。女の子のイヴェタが気まずい思いをするのは無理もない。歩いているあいだもイヴェタはずっとうつむいたままだったが、風が栗毛のカーテンをかきあげた隙にちらりと見えた顔は目元がやや赤いものの涙の跡は見受けられず、ブロルはそっと胸をなでおろした。
イヴェタにきかれるままに、ブロルは素直に答えていく。ブロルが教わったのは、まず日頃から交流のある女の子の家に行って「今日のパンツは何色だい」って問いかけるということ。相手が答えたパンツの色は、身に着けているものではなく気持ちをあらわしているということ。
赤なら好き。
黄なら興味なし。
青ならチャンスあり。
「え? それってポムラースカで叩かれたあとに、女の人がお返しとして渡すマシュレっていうリボンの色のことじゃないの?」
思わずといった感じでイヴェタが顔を上げて目を丸くした。ブルーの瞳はまっすぐブロルに向けられている。
基本的にお返しとして卵形のチョコレートを渡すけれど、それ以外のお菓子を渡すこともある。大人同士の場合は更にポムラースカの先にマシュレを結びつけるしお酒を振舞ったりもする。もっともマシュレの色で気持ちを伝えていたのは昔の話で、今はただお返しとしての意味しか残ってはいない。
「そうなの? 最初に色をたずねて黄以外の色を答えた時だけポムラースカでお尻を叩くことができるって教わったんだけど」
ほかには、ポムラースカでお尻を叩くことができるのは午前中だけ。午後になってしまったら相手の女性から水をかけられてしまうということ。ホディホディという歌はおまじないで、おまじないが終わるまで叩き続けるということ。
「おかしいのは最初の失礼なセリフだけね」
最後まで答えた結果、パンツの色をたずねること以外は変なところはなかったようだ。ようやく水をかけられた原因がわかったものの、女の子に恥ずかしい思いをさせてしまったことが明らかになったわけでもあり、ブロルは申し訳なくていたたまれない気持ちになった。顔を伏せると後頭部に手をあてて軽くなでる。
「そうなんだ。ミレナやマリアにも悪いことしちゃったな」
「ミレナやマリアのところにも行ったの?」
「うん。そう。イヴェタで三人目。ペトルがいないときにいろいろ教えてくれたのは君たち三人だったし。だから僕がポムラースカを持って訪ねていっても君たちなら相手してくれるんじゃないかって思って、家が近い順に回ってたんだよ」
「そうだったの。でもミレナたちなら謝ったら許してくれると思うわ」
「そうだね、これから行ってみるよ」
さっそくとばかりにブロルが立ちあがろうとする。それを見てイヴェタが思い出したように声をあげた。
「あ」
「どうしたの?」
「まだ午前中でしょ。せっかくだから叩いていく?」
仕切りなおしを勧めてくれるイヴェタに感謝してブロルがポムラースカを構えると、後方から声がかかった。
「私たちも混ぜてもらえるかしら?」
ブロルたちが振り返った先には、アッシュブロンドの髪をしたよく似た顔立ちの少年少女が立っていた。先ほどの声はこの少女が発したものらしい。笑顔で軽く手をあげている。横にいた少年がポムラースカを軽く掲げて小さく横に振った。




