19.捕らわれた狭間で
突き落とされたわけでも、なんらかの衝撃があったわけでもない。掛けられたのは言葉だけ。けれどその言葉を聴覚が捉えた直後にはすでに二人は界の狭間に入っていた。周囲は見渡す限りの闇。
リリスは腕のなかにいるゴドフリーの体に目をやった。抱きとめたとはいっても支えきれたわけではない。重みで潰れるようにゆっくりと腰を落としていき、最後にはその場にぺたんとお尻をついて座り込む。それでもリリスはゴドフリーの体をはなさなかった。
「レイ」
いっこうに目を覚まさないゴドフリーを呼ぶ。
「レイ?」
早く目を覚まして取り戻したという実感を与えてほしい。そう願いなから何度も呼びかける。額にくちづけ。こめかみにくちづけ。頬に鼻先に唇にくちづける。
「あの悪魔に根こそぎ精力を奪われたのね」
魔窟で飲んだ血は、昏睡するほどの量ではない。リリスは自身の指を牙で傷つけると、ゴドフリーの口のなかに指を入れて流れだした血を飲ませようとした。
「レイ、お願い、飲んで」
意識がない状態では通常飲み込むことができない。無理に飲ませようとすれば喉をつまらせてしまうだろう。しかし目を覚まさなければどのみち死は免れない。あとはただ生きようとする体の本能にかけるしかないのだ。血が口の外に零れないようにあいた手で適度に顎を持ち上げる。飲んで欲しいと伝わるように喉をなでさする。ややあってわずかな喉の震えが指に伝わると、すぐに上下に動いて血を嚥下したことがわかった。二度三度嚥下を繰り返すうちに、飲み込む力も強くなってきた。
「レイ」
呼びかけが聞こえたのか、ゴドフリーが薄く目を開ける。
「レイ」
もう一度呼びかければ、ゆらゆらと揺れながら瞳がリリスへと向けられた。
「おかえりなさい、レイ」
安堵に顔をほころばせながらリリスはゴドフリーの額にくちづけた。体を起こそうとするゴドフリーを介助するために、リリスは傷を塞いだ手を背中にあてる。
「こっちで飲める?」
リリスが首筋をさらすと、ゴドフリーはおとなしく血を飲んだ。
彼は何度か口を開こうとしていたのだが、声がかすれるどころか空気が漏れる音しかしないほどだった。だから自分でも先に精力を取り戻す必要があると判断したのだろう。そうした思考ができる時点で危機は脱したという証でもあったので、リリスはほっと胸をなでおろした。
しばらくして顔をあげたゴドフリーはこぼれた血を舐めとるついでに牙の傷も舐めて癒した。そのまま肩に頭を預けるようにして息をつく。
「悪かった」
今度は声が出たようだ。多少かすれてはいるものの聞き取れないなどといったことはない。
「具合はどう?」
「しばらく休めば回復すると思う」
限界まで抜き取られたからか、リリスの血を飲んでもすぐに体力は回復しそうになかった。
「ここは?」
ブロルの代わりに依り代にされたことしか記憶にないゴドフリーに、リリスはこれまでのことを簡単に説明する。
「そうか。それじゃここは地上と魔窟の狭間ってことか」
「たぶんね」
狭間についての詳細はリリスたちにはわからない。便宜上そう言っているだけで、物理的に地上界と魔窟界を隔てているわけではない。しかし説明はできないが、現実的に力のあるものはここを行き来できているし、こうやって存在している。実際に狭間に捕らわれているのだから、ないと否定することもできないしその必要性も感じない。知りたいのはここから出て地上に戻る方法だけ。
周囲のすべてが闇に覆われている狭間。けれど一応こうして体を支える地面のような足場がある。それだけでも安堵できる。ましてや半身を取り戻したのだからさほど追い詰められた感じはしない。それに人間があふれている地上と違って狭間では人の目を気にしなくていいので助かる。陽の光があれば楽園と大差ないのではないかと思えるほどに。そう考えると肩から力が抜けて大きなため息も思わず漏れた。
「どうした?」
いきなりリリスが脱力したので、慌てたようにゴドフリーが尋ねてきた。リリスは小さく首を横に振る。
「なにもないわ。強いて言うなら力が抜けただけ」
「うん?」
「ここは地上と違って人の目を気にしなくてもいいでしょう? そう気づいたらなんか急に力が抜けてしまったのよ。ただそれだけ」
「まあ……そうだな」
ゴドフリーが同意しつつ苦笑する。
人はどんどん増えて地上を占領していく。夜でさえ眠ろうとはせずに、明々とした灯りで照らして昼と同じように過ごそうとする。奪われていく魔の領域。夜の闇。一部の魔は人のふりをして人に紛れた。ただし魔と気づかれたとたんに嫌悪され、なんの因果関係もないことをあたかも元凶であるかのように責められて襲い掛かられる。そうした魔をこれまで幾度か見てきた。地上はそんな危うさをはらんだ場所でもある。
けれど界の狭間では生きた人間は存在せず、行き来するのは力ある魔や悪魔などだけ。擬態しなくてもいいというのはとかく安堵をもたらせた。気持ちが落ち着いて精神が安定すると思考力も向上するのか。
「そういえば魔女に回復薬をもらっていたのを忘れていたわ」
懐から小瓶を取りだしたリリスは、一本をゴドフリーに渡して、もう一本を自分が飲んだ。飲み終わったゴドフリーがふぅと大きく息をはいた。
「すごい効き目だな。重かった体が軽くなってようやくいつもの自分に戻れた感じだ」
ホッとしたように微笑むゴドフリーを見て、リリスの顔にも自然と笑みが浮かび、気持ちがさらに浮上する。指を絡めるようにして手をつないだ二人は、出口を求めてゆっくりと歩きはじめた。お腹が空けば互いに血を飲み合い。それでも足りなくなれば小瓶を半分ずつ飲み合う。そうやって歩き続けたのだが出口はいっこうに見つかる気配はなかった。
「見つからないわね」
ポツリと弱音をこぼせば、ゴドフリーがちょっとおどけた表情でリリスの顔を覗きこんだ。
「邪魔者がいなくていいじゃないか。人目も気にしなくていいし、ここは暗いだけで今のところ敵もいない。急ぐ必要はないだろう?」
「そうね」
そう答えたものの、本当はゴドフリーもリリスもそう言い切れない状況が一つだけあることに気づいている。
問題なのは食料。
本来であれば血を飲んでいれば大丈夫なので交互に飲み合っていれば問題ないはずなのだが、狭間ではそれだけでは足りないらしく魔女からもらった回復薬の手助けが必要となる。だが回復薬は全部で五本しかない。最初に二本。次いで一本。少し前に一本飲んで、残りは一本だけ。その事実がリリスを焦らせていた。
「俺はかまわないよ」
唐突な言葉に、リリスはゴドフリーの顔を振り仰いだ。
「いきなりどうしたの?」
「だから、このままここで命を落とすことになったとしても俺はかまわないってこと。最後までリリスと一緒にいることができて、リリス一人を残して逝かずにすむならそれでもいいと思ってる」
言われてみればたしかにそうなのだ。ずっと一緒にいたい。それが望み。ならば同時に死を迎えることになったとしても、それが一緒にいられる唯一の方法だとしたら避ける理由はない。リリスは小さく笑った。
「それもそうね」
自分の半身とずっと一緒に過ごして、最期もともに逝くことができるというのは、むしろ願ったり叶ったりだ。
「たしかにそうね」
リリスはもう一度繰り返した。そんなリリスの目の前を淡く光るコウモリが横切った。一瞬使者かと思ったが、使者のコウモリは火影のように光る赤い闇。このコウモリは仄白い光。なにより息を呑むゴドフリーのようすから彼にも見えていることがわかる。使者であるはずがない。リリスはコウモリを捕まえてみようと手をのばした。リリスの指にとまったコウモリは、羽を休めると目を閉じる。するとコウモリを起点としてある光景が広がった。ちょうど半径がリリスの肩幅くらいの円形の光のなかに映しだされた画像。それはアルベルトが体験した過去のできごとのようだった。
「どういうことだ?」
ゴドフリーの問いにリリスは考え考え言葉を発する。
「たぶん、アルベルトは半魔だったから、人の部分が魂を持っていたんじゃないかしら」
魔は死んだらそれまで。魂などといったものが残ることなくただ消滅する。少なくともそう認識している。
それに対して半魔とは文字通り人と魔のあいだに生まれた子のことだ。なかにはそうした人としての魂を持つものがいても不思議ではない。人の血も確実に引いているはずだからだ。
屋敷の地下牢にゴドフリーが捕らえられたときに、アルベルトが口にしていた「純血種」という言葉。それは半魔のアルベルトに対して、生粋の吸血鬼という彼の自虐めいた皮肉だったのだ。
円のなかの映像はアルベルトがなぜ今回の事件を起こしたのかを解説しているようだった。
どこかの古びた猟師小屋のような木造の家。森の外れにぽつんと建っていたのはその家のみ。比較的近くに小川は流れているが、人が暮らすにはどう見ても向いていそうにない。畑を耕すにも、川で釣りをするにも中途半端。森以外はゴツゴツした大岩がゴロゴロしている。ただ転がっているだけではなく埋まった状態で。それでも人手が多ければ、時間さえかければなんとかなったであろうが、ここには壊れかけた小屋としか形容しようがない家と、そこで暮らす母親と小さな子供しかいなかった。
母親はときおり子供をおいて森のなかへと獲物を狩りに行く。赤子の頃ならなんとか背負ったまま狩りをおこなうこともできたが、子供が成長してくるとさすがにそうもいかなくなった。
木の実などは期待できない。そうした木はこの辺りには生えていないからだ。もっと奥まで入り込めばなにかが見つかるかもしれない。けれど家に子供を残したままではそういうわけにはいかなかった。そして子供を連れて狩りができるほどには母親の腕は手馴れているわけではなかった。せめてあと一~二年。もう少し子供が大きくなるまでは子連れでの狩りは困難だった。
この日も子供はひとりで留守番をしていた。いつもであれば二日前後で帰宅していた母親が四日たっても帰ってこない。食料の備蓄など無い貧乏な暮らし。用意されていた僅かな食料は、少しずつ食しても三日で尽きた。お腹の空いた子供は母親を探して森のなかへと入っていった。初めてひとりで足を踏み入れた森。家が見える範囲内では珍しくはないものの、そこから先は未知の世界だ。どこにいけば母親に会えるのかまったくわからない状態でただ奥へ奥へと進むのみ。
やがて芳しいにおいが漂いはじめた。子供はふらふらとそのにおいにつられて足を運ぶ。そうしてたどり着いたところにはひとりの首のない人間が倒れていた。衣服はズタズタに切り裂かれていて意味を成していない。
その横には異様に手足の長い猿によく似た魔の死骸。子供はまだ魔という存在を知らなかった。だから恐れもなにもわかなかった。母親が狩ってくる動物たちとの違いもわからない。ただ彼らから漂う嗅ぎ慣れた血のにおいに刺激されて湧きでた唾を飲み込む。
ガサリと葉擦れの音がした。子供が音がしたほうに顔を向けると、すぐ横に赤い蛇。蛇はチロチロと赤い舌を出し入れする。
「どうした? お腹がすいたのか? 食料なら目の前にあるだろう。食べないのか? 早く食べないとほかの誰かに取られるぞ」
蛇はさらにそそのかす。
甘い匂いがするだろう。あれは極上の果実。さあ飲んでごらん。おまえの持っている牙を突き立ててあふれてきた蜜をすすればいい。できるだろう。簡単なことだ。ほらできた。うまいだろう。
「うん、おいしい」
子供は全身を赤く染めてうなずく。蛇は隣の生き物を尾で指した。
「こっちは頭のところにキラキラ光っている塊があるだろう。あれを飲み込むと元気になれるぞ」
子供は言われたとおりに拾って飲み込んだ。蛇はニヤリと嗤った。
「これでおまえも罪の子だ。選んだのはおまえ。吸血鬼と人の子供よ。これでおまえの魔が目覚めた。同時に母食いの罪科を負って一生人の血は飲めない呪いを受けた。おまえの腹を満たすのは魔の核だけ。がんばって狩れよ」
それだけを告げると、蛇はするりと音もなく消えた。
「まって」
蛇を追って子供が茂みを抜けた先には、母親の首が転がっていた。
コウモリが見せた映像が消えて、もとの闇が戻ってくる。リリスたちは強制的に見せられたアルベルトの過去を思い返して顔をしかめた。なんとも言えない気持ちが、重い唸り声を吐きださせている。アルベルトはきっと魔のすべてを恨んで、滅するために生きる道を選んだのだろう。だが魔の核を食らって力を強めても限界を感じた。だからこその今回の事件。たぶんそういうことなのだろう。
「それにしてもあの蛇、私たちだけじゃなかったのね」
「俺とリリス、アルベルトだけで済んでいるわけはないだろうな。おそらくアダムとイブが最初だろうが、それに味をしめたのかどうなのか。どちらにしろあちこちで数えきれないほどやらかしているのは事実だろう」
「迷惑すぎるわ。そもそも無知なものばかり狙ってるじゃないの。知らなければ言われたとおりにするしかないじゃない。あらがえるものなどいるわけないわ」
「そうでもないぞ」
突然会話に入り込んできた声の主は、話題の中心である悪魔――サマエルだった。
「まだこんなところにいたとは。よほどここが気に入ったのか?」
自力では出られないことを知っていてしゃあしゃあと言ってくる神経に、彼女は心底腹がたった。即座に抜いたタガーを闇の剣に変えて切りかかる。
「やめたほうがいい」
「命乞いをするつもり!? どうせ死なないんでしょ? おとなしく切られるくらいしなさいよ」
「そうじゃない。ただの忠告」
ふざけるなと言おうとしたリリスは、ゴドフリーが切羽詰まった声で遠くから自分を呼ぶ声を捉えた。意味を理解する前に闇の鞭が巻き付いてリリスの体をとらえる。
「ちょっとレイ、これはどういうことよ!」
邪魔をしないでと言うつもりで振り返ったリリスは目を瞠った。すぐ側にいたはずのゴドフリーがいつの間にかはるか後方へ移動していたのだ。悪魔が楽しそうに嗤う。
「だから人の話はきちんと聞いたほうがいいぞ。ここは界の狭間だ。地上と同じように考えていたら大切な存在に二度と会えなくなるぞ。ここでは目に見える距離はあてにならないと覚えておいたほうがいい。いったん手をはなすと二度とつかめなくなる。あっという間に姿が見えなくなって、訪れるのは永遠の別れ。俺に意識を向けている場合じゃないだろう」
半身とどちらが大事かと問われて、リリスは唇を噛み締めた。悔しげにタガーをおさめる。そんなリリスに、悪魔が一つだけアドバイスをした。
「ここから出る方法は実は簡単なことだ。死ねばいい。ただそれだけだ」
それだけ伝えると悪魔は「じゃあな」と軽やかに手を振って消えていった。




