20.再会
ゴドフリーが闇の鞭を短くしながら走ってくる。悪魔の言葉もあり、リリスを見失いそうで鞭を緩めるのが怖かったようだ。彼がもともと持っていた鞭の柄は捕らわれた屋敷でなくしたまま。今鞭として使っている柄は、魔女にもらった剣の柄だ。悪魔がゴドフリーの体を依り代にしていたときに、リリスから取り上げて背腰に挿しておいたもの。とっさにおこなったがうまくいってほんとうによかった。ゴドフリーはリリスを腕のなかに抱き寄せてそうつぶやくと、心底安心したように腹の底から息を吐きだした。
「ごめんなさい、レイ」
ついカッとなって殺せもしない悪魔に切りかかってしまったリリスは、深く反省して自分からも抱き返した。そうして失わずにすんだことを心から安堵したのだ。
そんな二人のまわりをふらふらと飛びながら数周したコウモリ姿のアルベルトの魂は、やがて悪魔が消えた場所とは逆の方向へ飛んでいこうとする。リリスたちに真相を伝え終わったので用なしになったのだろうと、引き止めるようなことをせずに黙って見送った。しかししばらくするとまた戻ってきて、リリスたちのまわりを飛んでから、再び先へ進もうとする。
「もしかしてついてこいって言っているのかしら」
「どうせあてはないし、いってみるか」
なにをしたいのかわからないが、すでに敵意は感じられないし、できることなどなにもないだろう。リリスたちもどちらにしろ出口を求めて移動する必要がある。とはいえどちらに向かえばいいのかわからないので多少付き合うくらいはしてもいいかと思えた。
界の狭間の闇のなかを仄白いコウモリを追ってひたすら歩き続ける。途中で最後の回復薬を分けて飲み干した。
「これで終わりね」
「もしものときはもしものときだ。はなされたりしなければそれでいい」
ゴドフリーのその一言がリリスは嬉しかった。
「そうね。私も同じ気持だわ」
けれどそれは『もしものとき』のこと。
「ここでは擬態する必要がなくて楽だけど、このままじゃあの悪魔に負けたようで癪なのよね。してやられたままで終わるなんて自分が許せないわ。是が非でも地上に戻って高笑いしながら『様を見ろ』って言ってやりたいわね」
腹を括るとなぜだか気持ちが前向きになった。
「そりゃいいな」
リリスの口調が気に入ったのか、もしくはそのようすを想像したのか、ゴドフリーが吹き出すように笑う。
「たしかに相手があの悪魔とはいえ、最初から最期までやられっぱなしってのは性に合わないな」
「でしょう? そりゃ一矢を報いたり一泡吹かせてやれれば一番だけど、そんなことは無理だってことは悔しいけど理解してるの。だからせめて生き延びて地上に戻ってやるのよ。そうしたら今度はスウェーデンかフィンランドあたりにでもいって銀髪鑑賞でもやりましょうよ。レイに邪魔されて悪魔が手に入れそこねたプラチナブロンドの大鑑賞会よ」
道行く人をただ眺めるのもいいし、銀髪の店員が多いレストランやカフェでくつろぐのも楽しいだろう。生きて地上に戻るということは、『ここから出たければ死ねばいい』といった悪魔の鼻を明かしてやったということにもなる。二人は地上に戻ってからのことを楽しく笑いながら話した。
そうしてとうとう疲れが出始めた頃に一つの門が見えてきた。コウモリはどうやらそこへ向かっているようだ。
「あれってもしかして」
「たぶんそうだろう」
コウモリはアルベルトの魂。それはつまり死んだ人の魂だ。死を迎えた人の魂が向かうところなど一つしかない。
「冥界の門……」
近づけば、巨大な門の両端に槍を持った獄卒が立っているのが見て取れた。その間をふらふらとコウモリが入っていく。リリスたちもそのあとに続こうとしたのだが、目の前で槍が交差して通行を止められた。
「ここからさきは死者の魂しかお通しできません。生者はお戻りを」
リリスは声をかけてきた獄卒へ、冥王への面会を願いでた。
「お願いします。冥王様にお会いしたのです。なかに入れてください」
冥王に頼んで地上に帰してもらおうとしたのだ。だが獄卒の返答は紋切り型でにべもなく断られてしまう。
「なりません」
「お願いします。少しだけでいいんです」
「できません。早々にお戻りを」
やや強めの言葉が向けられたと同時に、リリスたちを弾き飛ばすほどの力が襲いかかってきた。踏ん張りも虚しく、リリスとゴドフリーの体は空中に投げ出されるようにして吹き飛ばされていく。ただ互いの手をはなさないようにするだけで精一杯だった。どれほど飛ばされたのか。風が途切れて体が地に落ちたところで二人はようやく閉じていた目を開ける。風が強すぎて目を開けていることすらできなかったのだ。さすが冥界の門を守る獄卒。門番でありながらたいした力の持ち主だ。ゆっくりと周囲を見渡したリリスは驚きに目を瞠った。
「ここは……まさか地上なの……?」
陽の光。澄んだ空気。緑あふれる草原。緑の大地はゆるやかな丘となってさらに先へと続いていた。
「どうやら極卒たちに『生者』がいるべき場所へと飛ばされたようだな」
リリスは握りしめたままの手に視線を落とす。互いに精一杯の力で相手とはなれまいとした証。リリスは手を持ち上げると、ゴドフリーの手の甲へくちづけた。
「リリス?」
「ようやく取り戻せたんだと思って……」
ほんとうにやっと。そんな気持ちがあふれてそれ以上は言葉にならない。ゴドフリーがそんなリリスを抱き寄せる。そっと額にくちづけた。
「ごめん。心配かけた。でもちゃんとここにいるから。狭間でもちゃんと捕まえただろう?」
「うん」
そうだった。ゴドフリーが鞭で捕まえてくれなかったら二度と会えなかったかもしれないのだ。リリスは改めてゴドフリーの背中へと腕を回してぎゅっと抱きしめた。
しばらくのあいだそうして抱き合っていると、草木を踏みしめながら近づいてくる足音に気がついた。そっと腕をはなしてそちらに視線を向ける。そこにはひとりの老人が立っていた。丁寧に一礼した老人はにこにこと微笑んでいる。
「まちがっていたら申し訳ありません。その場合は年寄りの戯言と聞き流してください。失礼ですが、あなたがたはリリスさんとゴドフリーさんではないでしょうか?」
「そうですが……」
怪訝な顔をしながらもそのとおりなので肯定した。そしてふと嗅ぎとったにおいに記憶が刺激されたリリスとゴドフリーは揃って瞠目した。
「あなた……ブロル?」
「ええそうです。覚えていてくださったとは嬉しい限りです」
「でもあなた、たしかまだ十代だったはず……」
においは本人だと告げているが、魔窟や狭間をウロウロしていたあいだに少年が老人へと変貌を遂げていればなにがしかの魔に化かされているような気になる。老人となったブロルは小首をかしげた。
「私は順当に歳を重ねてきましたが」
そこでなにかに気づいたように目を見開いて、信じられないといった表情で口元に手をあてた。
「もしかして、私が十代の子供の頃にさらわれてしまったあの事件。あれはまだ終わっていなかったのですか?」
尋ねていながらすでに答えを知っているような口調。事実であるだけに答えに詰まったリリスたちの反応を見てブロルはおののいた。
「なんということ。命の恩人にさらに五十年以上に渡って苦労をお掛けしてしまうとは、なんとお詫びを申し上げればいいのか。せめて我が家でゆっくりと養生なさってください。ああ、それとも血のほうがよろしいか。こんなジジイの血でもよろしければいくらでもお飲みください」
上着のボタンを外して首元をくつろげようとするブロルを、リリスは慌てて制した。
「もらえないわ。言ったでしょう? それとももう忘れてしまったかしら? 飲み過ぎると命に差し障るって。特に今は疲れていて加減がきかないから誰の血も飲む訳にはいかないわ」
そこへ別の声がかかった。
「でしたらやはり我が家でゆっくりと養生なさってはいかがでしょうか。客間はあいておりますので気遣いは無用です。ましてや夫の命の恩人とあっては、このままおかえしするわけには参りません。せめてものお礼をさせていただきたいのです」
そうした好意は相手のためと見せかけて、実はお礼をしたいという自分のわがままでしかない。謝礼もせずに済ませる自身が許せないといった感情からくるもの。
「こちらこそ気遣いは無用です。これは私たちなりの事情があっての結果。ご主人のためだけにおこなったわけではありませんので」
聞いてもらえはしないだろうと思いつつ、一応言うだけは言ってみた。案の定悲しそうな顔をされてしまった。押し付けがましい好意は迷惑でしかない。
「気持ちは受け取っておきます。けれど迷惑がかかるとわかっているのにお受けするわけにはいかないのです」
リリスは正直に今の状態を伝えた。かなりの疲労を抱えていること。一度眠ると完全に回復するまで目覚めないため数年、もしくは数十年は眠り続けることになってしまうということ。
「イヴェタ」
ブロルは妻を呼んで目で合図を送った。
「ええ」
ただそれだけで通じ合う。何十年も連れ添った夫婦らしく息がピッタリのようだ。
だが。
「イヴェタさん?」
聞き覚えのある名前だということにふと気づく。ブロルは「ああ」と言って笑った。
「ゴドフリーさんと一緒にポムラースカでお尻を叩いたあの少女です」
「まあそうだったの。それはおめでとう。やはりそれがきっかけで?」
「はい」
照れくさそうに笑うブロルは老いてもなお純朴そうな人柄のままだったようだ。そういえばあの時もいい雰囲気になっていた。ブロルがくしゃみをするまでは、だったが。イヴェタに目をやる。栗毛は今ではブロルと同じ白髪になっているが、ブルーの瞳は変わりない。
「そう。それはほんとうによかったわ。偶然とはいえ仲間に入れたことは楽しい思い出となっているもの。だからこそ余計に迷惑は掛けられないわ。どこかに長い期間静かに休めそうなところを知らないかしら。人があまりこない森とかだと嬉しいのだけど」
「いえ、やはり我が家にお越しください」
ブロルが手を差し伸べてくる。
「子にも孫にも伝えておきます。私の命の恩人で、妻との交際のきっかけを作ってくれた大切な人たちだと。たとえ何年何十年経とうとも決して眠りを妨げずに守り切るようにと」
「どうかお願いです。身勝手な申し出とはわかっておりますが、どちらにしろ休める場所は必要なのでしょう。客室はいくつもあるのです。一部屋提供したくらいではなんの影響もありませんので、ぜひ」
「こういってはなんですが……、数年数十年も休めるような場所は残念ながらほかにはないと思います。今ではもうどこにいっても人の手が入っておりますので」
「五十年の間に人の世もさらに変わりました。人のこない森などもう見つからないでしょう。ですから是非我が家においでください。疲れを癒してから世界を見て回れば、私たちの言葉が真実だったとおわかりいただけるはずです。そのためにもまずは我が家でゆっくりとおやすみになってください。森などよりくつろげる環境を提供するとお約束いたします」
イヴェタにも重ねて言われて、とうとうリリスたちも折れた。実を言うともう限界だったのだ。
「それじゃお願いするわ。実はもう移動する力もあまり残っていないようなの」
肩をすくめてみせると、ブロルが大慌てで子供たちを呼びに行った。
「ここで待っていてくださいよ。絶対ですよ」
何度も念をおしながら丘をくだっていく。その向こう側がどうなっているのか知らなかった。だから断っていた。迷惑だからと。だがしかし連れてこられたブロルの息子たちに、リリスは横抱きで、ゴドフリーは背負われて運ばれていって、ようやくブロル夫妻が言う「我が家」には「客間がたくさんある」という言葉の意味を知った。
我が家の正体とは。
「お城……」
むしろ要塞といったほうがいいかもしれない。湖に囲まれた島の上に建つ要塞のごとき城。四隅に円柱の塔を抱えてどっしりと構える城。それとは別に中央に四角柱の主塔が正門を見据える。城の外周をさらに城壁が囲って四隅には円形の兵舎が。城壁の外にも要所要所に大砲が設置されて湖上からの侵入を阻んでいる。陸から城へ渡ることができるのは主塔の正面にある正門からのびる一本の小さい橋だけ。たしかにこれならば『何年何十年経とうとも決して眠りを妨げずに守り切る』というセリフが出てくるのもうなずける。もちろんこれらの設備は今となっては飾りにすぎない。飛行機やミサイルといった現代の兵器を持ちだされてはとても太刀打ちはできない。けれど覚悟のほどはじゅうぶん窺えた。
「はい。この城が我がエリングマルク家の本家となります」
結婚してから家を継ぐためにスウェーデンへと戻ってきたのだという。
「じゃあここはスウェーデンなの?」
「はい、そうです」
リリスは苦笑した。
「詳しい話を聞きたいのだけど今は無理そうね」
どちらにしても時間が足りない。まぶたは今にも閉じてしまいそうだ。
「だからブロルとイヴェタ、うんと長生きしてちょうだい。私たちが目覚めたときにたくさん話ができるように」
どうやって恋を深めたのか。いつ結婚したのか。どんな式だったのか。子育ては。日々の記念行事は。きっと話題はつきないに違いない。
「まずは笑顔でおはようの挨拶からできるように、元気でいてちょうだいね。約束よ」
イヴェタは目に涙を浮かべて何度もうなずいた。これで目覚める楽しみができたとリリスは笑う。
案内された客室は天蓋付きのダブルベッドがある清潔な部屋。城という名に反して華やかさはないが、色合いといい装飾といい木の風合いを生かしたデザインとなっており落ち着いた雰囲気でよくまとまっている。逆にそれがくつろぎの空間を演出していて好ましい。
「素敵な部屋ね」
「ここならゆっくりと休めそうだ」
自然と笑みがこぼれ落ちる。二人はそっとベッドにおろされた。体に負担をかけないようにという、そんなささやかな気遣いすらありがたい。
「ありがとう。おやすみなさい」
リリスとゴドフリー、ブロルにイヴェタ、そして子供たちや孫たちとで就寝の挨拶を交わす。こんな眠りは初めてだ。
ブロルとイヴェタがベッドの四柱に止めていた黒レースのカーテンをおろして寝台を覆い。優しい陽光が射し込んでいた窓も、眠りには不要と子供たちが手分けして遮光カーテンで塞いでいく。静々と眠りの場を整えられていくなかで、リリスとゴドフリーは照れくさそうに目を閉じた。手をいつものようにつないで、ゆっくりと体から力を抜いていく。
(諦めなくてよかった)
部屋の扉に鍵がかかる音を遠く耳にしながら、意識は静かに眠りへと落ちていった。




