17.魔窟に招待
なんの衝撃もなかった。ただ世界が異なったことで空気が、気配が、音が、においが、気温が、景色が、一気に色を変えた。
自由を許されている視界から得られる情報を可能な限り取得する。
「ここは、魔窟なの?」
「そうだ」
印象深いのは色が乏しいこと。闇のなかであっても視界に不自由はないが、やはり光がないと鮮やかな色は生まれない。どれも墨色に染められているよう。ぎこちなく首を巡らせて悪魔の顔を振り仰ぐ。赤くほのかにきらめく瞳が、悪魔の力と存在をリリスに知らしめていた。やはりこの悪魔の力はそうとう強いのだろう。ここに鏡があったとして、リリスの顔を映したとしても、きっと周囲に埋もれて自身の色を主張することなどできはしないだろう。ゴドフリーと揃いのグリーンの瞳はきっと闇に染まって翳りを帯びているはず。
「リリス?」
じっと悪魔の瞳を見続けているリリスを不審に思ったのか。悪魔が訝しげに声をかけてきた。ゴドフリーの顔で、悪魔の声で。とたんにリリスはむっとした顔で悪魔をにらみつけた。
「どうしてこんなところに連れてきたの?」
「こんなところねぇ。ひどい言い草だ。いちよう俺たち悪魔のすみかなんだけど」
そうは言いつつもやけに楽しげだ。いったいなにを企んでいるのかしれたものではない。
「それで、どうしてここへ?」
「んー? 頑張ったリリスに褒美をあげようとしているだけ」
「褒美?」
どうしてそういうことになったのか。悪魔の思考回路は魔であるリリスにさえつかめない。そもそも痛いほどに右手首をつかんでおきながら、褒美だなんだと言われて喜ぶものがどこにいるというのか。いたとしたらそうとう気が触れているのだろう。掴む手にさらに力を入れられてリリスの顔が歪んだ。剣を持つ力が緩んだ隙に、魔女にもらった柄を奪われてしまった。
「こんな物騒なものは振り回さないように」
悪魔が柄を取り上げたとたんに魔力の供給が途絶えて刀身が消えた。それを無造作に後ろ腰のあたりに挿す。武器を取り上げて両手が自由になった悪魔は、リリスを抱き上げた。
「なにするのよ」
叫んでタガーを取り出そうとしたリリスに、悪魔の冷たい声がかかる。
「それを使うとおまえの大切なこの体が傷つくだけだよ」
悪魔の言うとおりだった。ゴドフリーを傷つけずに宿った悪魔だけを攻撃できるのは魔女にもらった柄で作った闇の剣だけ。同じようにリリスの魔力を使って闇の剣を作りだしたとしても、いつものタガーを基にしたものでは依り代であるゴドフリーの体をまず傷つけるのだ。悔しくてリリスは唇を噛み締める。
「そんなことをすると可愛らしい唇に傷がつくだろう。褒美だと言っているのにどうしてそう悲観的になるんだろうねぇ」
「それは相手があなただからでしょう」
この悪魔がこれまでいったいなにをしてきたのか。リリスたちになにをしたのか。それを覚えていながらなぜこれほどまでに尊大かつ厚顔でいられるのか。
もしもこれがリリスだったら決してこのようなセリフは出てこないだろう。魔でありながら人の世界に紛れるように生きてきた彼女は、長い間擬態を続けてきたせいでどうしても悪いことをしてしまったという感情のほうが大きく出てしまうに違いない。けれど悪魔はそうした予想をことごとく覆して上位に立ち続けるのだ。それを成すことができるのはいったいどれほどの力なのだろう。わずかに想像しただけでリリスはブルリと体を震わせてしまった。両手で横抱きにされている状態なのだ。震えが悪魔に伝わらなかったはずはない。案の定悪魔の足がとまった。
「どうしたのかな?」
「なんでもないわ」
虚勢でもなんでも掻き集めてうわべをつくろってみたものの、うまくいっていないことは誰よりも彼女自身がわかっていた。けれど。
「ああ! お腹がすいたのか。あれだけ動けば腹もすくよな」
リリスの額にくちづけをひとつ落とした悪魔は、上体をすくい上げるようにして首元に誘導した。
「飲んでいいぞ。おまえが大好きな彼の血」
あっという間に目の前にゴドフリーの首筋がさらされていた。すでに唇が触れているそこに牙さえ突き立てれば容易に血をすすることができる。そんな位置。
「どうした? 飲まないのか? ちゃんと飲んでおかないとあとで困るぞ?」
いろいろなものを含んだ物言い。リリスが悪魔の顔へ視線を向ければ、悪魔のほうも応じてきた。赤い瞳。蛇の瞳。文句のひとつでもという考えはその瞳を見て霧散した。おもしろそうに今の状態を歓迎しているようで、瞳の奥はそうではなかった。
唐突にこの悪魔は神の悪意なのだと思いだした。すべてが秤にかけられている気になる。ゴドフリーを捕らえられているからにはヘタなことはできない。たぶん。そう。ただの予感でしかないのだが。きっとリリスはこの悪魔に試されているのだ。
小さく首を振って視線を戻す。悪魔の首に腕を回して体を安定させると、リリスは首筋に牙を立てて血をすすりはじめた。褒めるようにこめかみに落とされた唇は、ゴドフリーのぬくもりそのもので涙がでそうになる。ごまかすように目を閉じたリリスは、歩きはじめた悪魔が足を止めるまで吸血を続けた。
「ついたぞ」
悪魔の声に顔をあげたリリスは目の前にあらわれた巨大な建造物を前にして、ポカンと口を開けて呆然とする。
「ここ、は……?」
「俺の城だけど?」
それがなにかといった具合に返された。
暗闇の中にあってなお、漆黒の闇をまといながら呑み込まれることなくその存在を誇示するほどの風格を持つ城がそこに建っていた。さすがサマエル。こんな巨大な城で生活していたとは。けれどなぜ直接この城へ飛ばなかったのだろうか。闇渡りでは任意の場所に行けるはず。なにもリリスを抱きかかえてこんなに長いあいだ歩く必要はなかったのではないか。これではリリスを休ませるためにあえて時間をかけたようにしか見えないではないか。
「もちろんそのつもりだったんだけど。おまえは休めといっても素直に休んだりしないだろう?」
リリスはキッと悪魔をねめつけた。
「人の考えを勝手に読まないでちょうだい!」
「読んでるわけじゃないさ。おまえは考えていることが顔にでやすいから一目でわかるだけ」
巨大な門も、大きな扉も、主の帰城を喜ぶようにひとりでに開いて迎えいれる。照明にも次々と灯が灯る。悪魔が力を使っているのかもしれないが、少なくともほかの悪魔や魔の姿は見えない。派手なだけの装飾など一つも見あたらないというのに決して貧相だとか地味だとかいった表現があてはまらない。みごととしかいいようのない手の込みようでありながら、落ち着いた雰囲気を醸している。灯り一つとっても、明るすぎず暗すぎず。絶妙なバランスでそれ自体が装飾の一部となっていた。この悪魔のセンスなのか、従う何者かの努力の賜物なのか。細かいことはわからないが、ふと気づけば何度も目を奪われていた。きらびやかさだけを追求したような地上の城とは大きな違いだ。
リリスも魔だからだろうか。この城の闇はやけに居心地が良かった。闇に安堵を覚えるなど、ずいぶん久しぶりのことだった。地上に光があふれるようになって夜の闇が侵食され始めてから、長く忘れていた心地よさを思い起こした。
やがて大広間にたどり着いた悪魔は、ようやくリリスを床におろした。




