16.魔女の力で闇渡り
リリスはようやく肩の力を抜いた。
「まったく、これっきりにしてほしいわ」
つい漏れてしまった苦情。魔女は一瞥を寄越しただけでなにも言ってこなかった。リリスを魔力で飛ばすために、魔女も一緒についてきていた。魔獣を倒したキャンプ場近くの森から駅にたどり着くまで、魔女は幻視の術をかけてリリスによく似た少女に見えるように細工をしていた。しゃべりもせず、杖にも乗らず。それだけで魔女の存在を知らない人間は、すれ違ったとしても誰も不審には思わない。
リリスたちは人目に触れない物陰へと移動する。しわがれた声がそっと囁く。
「わかっていると思うが私が付き合えるのはここまでだよ。あとはひとりでなんとかするんだね。代わりと言ってはなんだがこの回復薬を提供しよう。報酬はあの悪魔を使役から外してあちらへ返すこと。方法は問わない」
魔女は取りだした小瓶を五本、リリスへと渡した。つまりはこれだけのものが必要な相手だということだ。
「それからこれを」
魔女の手にしているものは剣の柄だけだった。刀身はない。本来中子がおさまっている部分も空洞になっている。柄の側面の両端には、片面が赤でもう一面が黒の石が合計四個はめられていた。装飾といえばそれだけのいわば棒である。
「これは?」
「それに魔力を注げば闇の剣になる。それで悪魔を切ればいい。普通の剣はもちろんリリスがいつも使っている闇の剣だと依り代を傷つけることしかできないが、これは見た目は同じ闇の剣ではあるが、宿ってる悪魔だけを切ることが可能なんだよ。もちろん依り代が壊れれば器をなくした悪魔も返るしかなくなる。だがそれだとゴドフリーを取り戻すことにはならないだろう?」
だからこれを使えということだった。
「あの悪魔は殺したところで元いた場所で生まれ直すだけ。あとはこちらにとどまれない程度に傷つけるだけでも返っていくから、余計な心配はせずにとにかく向かっていけばいい」
かなり無茶苦茶なことを言われている気もしたが、実際のところそうするしか方法がないということだろう。ゴドフリーを取り返したければやるしかない。できなければ諦める。そういうことだ。
「ありがとうございます」
手に持った剣の柄を胸に抱くようにギュッと握りしめてリリスは魔女に礼を述べた。
「それじゃ、飛ばすよ」
魔女が口のなかで呪文を唱え始める。最後に杖の頭部でリリスの額をちょんと小突く。それだけでリリスの視界は闇に覆われた。
「ここはいったい……」
魔が集うどこかへ飛ばされるのではなかったのか。見渡しても闇以外はなにもないここは闇渡りに使われる界の狭間ではないのだろうか。たしかにいずこかへ移動させるには闇渡りをさせる必要がある。ということはこれからさらにどこかへ飛ばされるということか。キョロキョロと四方に視線を飛ばすリリスの視界に赤い光が横切った。あっと思ったときにはリリスの体もその光を追って狭間を抜け出ていた。
「ほう、追ってきたのか」
外見はゴドフリーだが、声と言葉と瞳が悪魔のものだった。依り代としての体の支配力が増したのか、声までも奪われてしまったようだ。赤い光は悪魔の瞳だった。瞳孔が垂直のスリット型。かわいくいえば猫の目だが、赤いせいで蛇かなにかにしか見えない。チロリと唇を舐める仕草が余計に爬虫類を連想させた。
(蛇……)
それはリリスにとってもゴドフリーにとっても消しきれない罪科。無知につけこまれた結果とはいえ、背反に対する責を負って、いくつかの制約が課せられた。すべては蛇のしわざ。けれど目の前にいるのは悪魔。似ているからといっても蛇ではない。リリスは過去を振り払うように周囲に目をやった。
「アルベルトはどうしたの?」
一緒に消えたはず。そしてこの悪魔はアルベルトの願いを叶えるべく魔を滅しているはずだった。なぜひとりなのだろうか。
「ああ、あいつなら魔窟に置いてきた」
魔窟とは悪魔が住んでいる場所。いわばこの悪魔の本拠地のはず。
「なぜそんなところに?」
「補助があれば闇渡りができると言っていたから狭間に連れ込んだんだが、いきなり気を失いやがったのさ。人の血が混じってるなら最初からそういえばいいのに。そうすりゃ空気の膜で覆ってやったのにな。呼吸ができなくて死にかけてたから魔窟に放ってきた。そのうち目を覚ますだろう」
「それでなぜあなたがここにいるのよ」
「もちろん退屈だから遊んでたんだよ」
「最初からそれが目的だったんじゃないの?」
アルベルトは不満そうにしていたがリリスはそうは思わない。この悪魔はかなりの力を持っているはずなのだ。
「なにがだ?」
「あなたならアルベルトが半魔だってすぐにわかったはずよ。だからあえて『補助』というあやふやな言葉だけで闇渡りを勧めたんでしょう?」
あの場にはリリスもいた。自身には人の血が混じっている半魔だから空気の膜が必要だと正直に告げていれば、当然リリスにも聞こえていた。だからごまかそうとして言葉を濁したから変な間があいた返答になっていたのだ。きっと補助が必要なことすら知られたくはなかったのだろう。そうしたことから考えて、彼は『補助』のなかには空気も含まれていると思っていた可能性がある。リリスたち魔にとっては『補助』とは界の狭間への出入り口を設けることだと知っている。けれど半魔であれば、魔にとってあたりまえのことを知らない、もしくはまちがって教わっている可能性が高い。半魔は、魔にとっても人にとっても忌み嫌われる存在だ。ましてや魔は仲間でさえ己の楽しみのためなら平気で殺傷するし、騙す。アルベルトが正しい知識を得ていた確率は低かった。ゴドフリーを依り代にしている悪魔はリリスの説明を聞き終えると、再びチロリと舌を出して唇を舐めた。瞳孔が愉悦からか細まり不気味さが増す。やはり蛇のようだと考えているリリスのことをわかっているのかどうなのか、悪魔はクスクスと笑い出した。
「ずいぶん賢くなったんだな。あのときは簡単に引っかかって拍子抜けするくらいだったのに」
含んだ物言いにリリスは眉間にシワをよせた。
「どういうこと?」
「おや? まだ気づかないのか? 意外だな」
またしてもチロリと覗く舌。リリスは瞠目した。
「まさか……ほんとうにあのときの蛇なの……?」
「なんだ、やっぱり気づいてたんじゃないか。そうでないとな」
「じゃあレイのことも……」
「ああ、この体の持ち主のことか? 覚えているさ。おまえの血をおいしそうに飲んでいたからな」
遠い遠い昔。リリスとゴドフリーは楽園で生まれた。
どうやって生まれたのかわからない。楽園ではいつも突然命が生まれる。なにもないところにポコリと。普段は単体で。けれどリリスたちは一緒に生まれて、同時に目を開けた。
今よりもっと幼い姿。人の成長を目安にすれば、だいたい五つか六つといったところ。白い貫頭衣を一枚まとっているだけで装飾などはなにもない。向かい合った形で生まれた二人は、自分以外の存在を目覚めと共にグリーンの瞳に映すこととなった。自分ではないもの。けれどまったく別の存在とも思えない。そんな奇妙な感覚を互いに感じていた。瞳の色はグリーンで、髪の色はアッシュブロンド。まったく同じ色。違うのは性別だけ。
「私はリリス」
「俺はゴドフリー」
わかっているのは自分の名前と、ここが楽園ということくらい。目の前の相手に向かって両手をのばしたのも二人同時。手のひらを合わせて、指を絡ませる。さらに近づいて額をくっつけ合った。
「レイはあったかくって、いいにおいがする」
「リリスも同じ。あったかいし、いいにおい」
しばらくして眠くなってきたリリスとゴドフリーは手をつないだままその場で横になる。起床してからも手をつないだままで、楽園を散策した。気の向くままに草花の色や香りを楽しみ、ちょろちょろと動く小さな生きものたちを眺めて、川では水遊び。そんなことの繰り返し。楽園では空腹を覚えることもなく、夜も来ない。好きなように過ごして、疲れれば休む。
そしてあの日。赤い蛇があらわれた。
白くて小さな花をたくさん咲かせていた低木の茂みで見つけた隙間が、幼い子どもたちが横になるのにちょうどいい空間だった。あとで知ったその低木の名はサンザシ。遊び疲れた二人がその隙間に潜り込んで休んでいたときのことだった。風が奏でるものとは違う局地的な葉擦れの音が、リリスたちを眠りから呼び覚ました。
「なぁに?」
「わからない」
まだまだ眠いのにと、リリスは目をこすりながらむずかる。ゴドフリーは寝起きのぼんやりとした眼差しのまま、なだめるように少女の頭をなでた。そのまま首を巡らせて、ある一点にきたところでパチパチを瞬きを繰り返した。コテンと首をかしげる。
「誰?」
ゴドフリーの視線の先には、青々とした茂みのあいだから赤い蛇が顔を覗かせていた。
「誰かいるの?」
リリスも顔を上げて赤い蛇を見つけると少年と同じように首をかたむけた。
「あなたが呼んだの?」
眠っていた二人を起こしたのはあなたですかと問うリリスに、蛇の瞳孔は楽しそうに細まって舌を出し入れした。
「呼んではいないが、起こしてしまったかもしれんな」
「まだ眠いのに」
リリスが不満を口にすれば、ゴドフリーも同意した。
「そうだよ。せっかく気持ちよく寝ていたのに」
蛇は軽く首をかしげて、尾の先で顎をなでるような仕草をした。
「なんだ? 寝起きでお腹が空いていて機嫌が悪いのか? だったら俺に遠慮せずに飲めばよかろうに」
「お腹が空いているって、どういうこと?」
ゴドフリーが身を乗り出した。
「ご飯を食べていないってことだろう」
「ご飯ってなに?」
「おまえたちは吸血鬼なんだから血だろう。なんだ飲んだことないのか? おいしそうなにおいがしないか?」
「おいしいってのはわからないけど、リリスはいいにおいがするよ」
「レイもいいにおいがするの!」
リリスも負けじと身を乗り出した。
「そのいいにおいをさせているものがお前たちのご飯だ。せっかく牙を持っているんだから使えばいいだろうに。ほら首んところにその牙を立てて流れてきた血をすすってみろ。うまいってのがどういうことかわかるから」
「うまい?」
「おいしいってことだよ。やってみればわかる」
ゴドフリーは蛇の言うとおりに牙を使ってリリスの首筋から血を飲んだ。一口飲んで目を瞠る。すぐにうっとりとした眼差しになっておいしそうにコクリコクリと喉を鳴らした。
「飲み過ぎると死んじまうぞ」
蛇の忠告で我に返った少年はようやく口をはなした。
「とってもおいしい。うん、わかったよ。これがおいしいっていうことなんだね。それに体から力が湧いてくる感じがする。リリスも飲んでごらんよ」
ゴドフリーが自分の首を指さす。うん、と満面に笑みを浮かべて大きくうなずいたリリスも、少年の血をおいしそうにすすった。
「ほんとだー! レイの血、とってもおいしい!」
はしゃぐ二人に蛇が告げる。
「楽園で血を流したな」
それは先程までのやや軽い口調とは違って、重く冷たいものだった。
「え?」
豹変した蛇の言動。リリスたちは意味がわからずに萎縮して互いに抱きしめあった。
「楽園では殺生はもちろん、血を流すこと自体が禁じられている」
「でも、飲めといったのは、あなたよ?」
少女が怯えながらも口にする。自分たちは言われたとおりにやっただけなのだ。
「それでも罪は罪。禁を犯したものには相応の報いが与えられる。おまえたちは楽園から追放されて地上に落とされる身となった。さらに使役も課せられる」
なにをおこなうかは都度コウモリの姿をした使者が伝えにいくのでそれに従えということだった。
今後極上の香味を味わえるのは互いの血だけ。地上のいきものの血も飲むことはできるが味は千差万別。ただし使者が伝えた対象者の血だけはどれほどまずくとも必ず飲むことと注釈が加えられた。
「どうして……。言われたとおりにしただけなのに……」
リリスの疑問がつぶやきとなって零れ落ちる。
「楽園で過ごすことができるのは数々の誘惑を振り払ってきたものだけだ」
それだけ答えた蛇は、役目を終えたとばかりにスルスルと枝を伝ってあっという間に去っていった。
俯いたままのリリスの体をゴドフリーがぎゅっと抱きしめる。少女の体は不安で震えていた。震えながら少年の衣をギュッと握り締めている。そんな二人を巻き込むようにつむじ風が流れていく。ただそれだけでリリスとゴドフリーは楽園から地上へと落とされていた。さらに姿も五つか六つといった外見から、十代後半といった年齢に見えるくらいに成長していた。地上での姿がコレと定められたのだろう。それ以降はまったく変化はなかった。
それから永い永い時を二人で手をとりあって生きてきたのだった。そんな思い出したくもないことを掘り起こされてリリスは頭に血が上った。
「返してっ」
「ん? 罪をなかったことにしろってことか? それは俺にも無理だな」
「違うわ! レイの体を返してと言ってるの!」
「でもこれは俺に捧げられたものだしなー」
「捧げてないわよ。そもそもアルベルトは失敗したはずよ。贄は足りなかった。それなのにどうしてあなたが出てきたのよ」
「だーかーらー退屈だったからだって」
「じゃあひとりで勝手に遊べばいいでしょう。レイの体が……、依り代としてのその体がなくたってあなたなら存在を保つくらい造作も無いことでしょう?」
悪魔はこの世界に現れるためには器となる依り代が必要だ。悪魔は実質肉体を持たないのでそのままだと自身を保てない。つまり力を振るうことができない。けれど上位の力ある悪魔であれば仮の体を自身で作れるはずなのだ。
「そりゃ体を作るくらい簡単にできるが、そうするとこの世界が滅ぶぞ?」
「どういうこと……?」
なにかが脳裏に引っかかる。リリスは強気で聞けなくなった。聞いてしまっては願いを口にできなくなる。そんな気がした。だから別の方法を考えようとしたが、さすがに悪魔だ。リリスが嫌がっていることをわかっていて言葉を被せてきた。
「地上で素の俺を見てしまうと死んでしまうから」
悪魔の声を遠く聞きながらリリスはやっぱりと思った。神の悪意と呼ばれる赤い蛇。そして悪魔故に闇を植え付ける機会を見逃さない。なんて奴。そう言われては単純にゴドフリーの体から出て行けとは言えなくなる。
「やっぱり、サ」
悪魔の名前を呼ぼうとしたリリスは、当の悪魔の手で口を塞がれることによって物理的に止められてしまった。
「やめておいたほうがいい。どの名であったとしても音にしたとたんに災いは起こるから」
それは本来の姿を見なくても災厄に見舞われるということか。
「そういうこと。だからおとなしくしていような」
リリスは無意識のうちに、魔女からもらった柄で闇の剣を作って切りかかっていた。なにもかもが腹立たしい。元凶である悪魔を退治なければゴドフリーも取り戻せないのだから、ここでおとなしくする理由など欠片も見あたらない。
生まれて間もなかったリリスたちに罪をそそのかした蛇。蛇のことは楽園を追われたあとで知った。赤い蛇は神の悪意とも死を司る天使とも渾名される悪魔――サマエルなのだと。
対サマエル用の特殊な闇の剣で切りかかるリリスを軽くいなしながら悪魔はチロチロと舌を覗かせる。虹彩は淡い赤色。瞳孔は濃密な赤色。ときおり顎に手を添えてほんの少しだけ首をかしげる。記憶に触れるのはあたりまえだった。あの日そうやって赤い蛇が尾の先を顎にあてて首をかしげるようにしながら誘いをかけてきたのだから。
あの赤い瞳でなにを見て。小首をかしげてなにを考えているのか。
この悪魔は決して倒せない。リリスにはもちろん、ほかの魔にもできないだろう。死を司る天使は、すべての世界から『死』がなくならない限り何度でも蘇るのだ。もっとも恨みはあれど、倒せないことに悲観しているわけではない。結局罪を犯したのは自分たちが無知だったからだ。生まれたばかりでしかたなかったとはいえ、本能が制止をかける声に耳を傾けずに、欲望に従ったのは自分自身。今ここで執拗に闇の剣を振るうのは一刻も早くゴドフリーを取り戻してかかわりを断ちたいからだ。こんなやつがゴドフリーのなかに入り込んでいるのが耐えられない。ただそれだけで、それがすべてだ。
「早く出て行きなさいよ! レイが穢れてしまうわ」
「ひどいなー。俺は穢れなど持っていないぞ。とっても清らかなんだがなー」
清らか。まさか悪魔の口からそのような単語が出てこようとは。
「あなたよくそんなことを恥ずかしくもなく言えるわね。悪魔が清らかだなんて。しかも罪をそそのかすのが趣味の蛇が清らか!? おぞましいこと言わないでちょうだい」
「おやおや、俺の純真無垢な心がわからないとは。おまえは楽園を追われてそんなに穢れてしまったんだねぇ」
「失礼なこと言わないで!」
渾身の一撃は悪魔の額を切りつけて、その勢いのまま左腕も両断したかに見えた。だが柄を握る手にはいっこうに衝撃が伝わらない。血も流れなければ、腕が切り飛ばされたりもしなかった。それがゴドフリーの肉体にはいっさい傷をつけていない証だと、リリスは信じるしかない。
振り下ろした剣を引き寄せる力を利用して、返す刀で今度は胸元を狙って切りつける。悪魔は舌打ちをすると、リリスの背後にまわって剣を持つ右の手首をつかむ。もう一方の腕をリリスのお腹にまわすようにして抱き寄せると、そのまま闇を渡った。




