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赤い蜜は罪に濁る  作者: 竪川杼緯


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15/20

15.森の獣は魔の獣

 リリスの足がようやく地面を踏んだのは広大な森の入口に設けられたバス停だった。この近くにキャンプ場があるおかげでここまではバスが通っていた。だがリリスが向かうのはそのはるかかなた、森の奥地である。迷子と間違われないように、気配を隠すようにして人目を避けつつ奥へと向かう。しかしある程度森に入ったところでリリスは後ろを振り返った。

「帰れと言ったはずよ」

 そこに立っていたのはブロルとペトル。家に帰るどころか結局ここまでついてきていた。ブロルがぎゅっと拳を握り締める。

「足手まといかもしれないけど、それでもなにかできることがあるかもしれないじゃないですか。怪我をしたときに血を飲める相手がいたほうがいいでしょう?」

「そんなこと言っていいの? 血を飲まれて死ぬかもしれないのよ? 化け物の仲間になるかもしれないのよ? 今まで平気だったからってこれからも同じことが続くわけじゃないのよ?」

 血を吸われながらも、こうして生きているのは手加減できる状況だったからだ。使者の命で殺すわけにはいかなかったから、生命を脅かすほど多く飲むことはなかった。血気を抑える程度に減らしただけというのが正しい。ただそれだけのことなのだ。いくらなんでも血を失いすぎては、死を避ける本能で吸い尽くしてしまう可能性などいくらでもあるのだ。

 なんておめでたい子供たちだろう。乾いた笑みを浮かべながらリリスはタガーを取りだした。闇の力を引き出して剣へと変化させる。もう少年たちには興味をなくしたようにあっさりと右横を向くと、手に持った剣をそちらに向けて突きだした。金属を擦りつけたような耳障りな悲鳴が森にこだまする。リリスに襲いかかってきた魔獣だ。キャンプ場からまったく人の気配を感じなかったのはこの魔獣に喰われてしまったからか。いくらシーズンを外しているといっても動物の気配すら乏しいのは不思議に思っていたのだ。

 リリスは舌打ちしてさらに闇の剣を振るった。

 イノシシのような魔獣に、シカのような魔獣。ウサギやアナグマ。キツネにイヌワシ。特にシカはノロジカ、アカシカ、ダマジカ、カモシカといった具合に種類も数も多い。ドイツにはシカの天敵であるクマやオオカミが絶滅してしまったせいで増えるいっぽうなのだ。そうしたもとはこの森に生息していたただの動物だったものが、とらわれて魔獣へと作り替えられていた。動物だった頃の元々の姿を残しながらも、牙やツノや翼、そして蹴爪などが異様に発達して、魔獣らしい武器と化している。

 背後から聞こえる悲鳴。ブロルとペトルのものだ。

「まったく厄介な」

 彼らが餌食になってしまってはますます魔獣の力が増してしまう。リリスは一足飛びに彼らのもとに駆けつけた。タガーを投げつけて二人を囲うように正三角形の結界を築く。

「そこでじっとしていなさい。あなたたちの指一本でもこいつらに与えられでもしたら、より凶暴化してしまうわ」

 視界の端でブロルとペトルがうなずいたのを捉えたリリスは、あとはただひたすらに魔獣を切り伏せていった。

「ちょっといくらなんでも多くない!?」

 切っても切っても湧いて出てくる魔獣。つい愚痴をこぼしてしまうのも無理もないこと。さすがにここまでの数を一度に相手にした経験はリリスにはない。ゴドフリーと一緒のときでさえ皆無なのだから、ひとりきりではなおさら手に余る。ほんとうにひとりであれば走って逃げればいいだけのこと。だがしかし今ここには足手まといが二人いる。

「だから帰れって言ったじゃない……のッ」

 最後の一言と共に裂帛の気合で闇の剣を振りおろす。すでに肩で息をするほどに疲労困憊なことが一目瞭然だった。飛びかかってきたリスの魔獣。小さすぎたせいで気づくのが遅れて腕に噛みつかれてしまう。それでもまだ左腕だったために即座に剣で串刺しにするようにして排除できたのだが、わずかによろめいてしまいそれがさらなる集中攻撃を招いてしまった。たちまち傷が増えていくリリス。蒼白な顔でブロルが叫んだ。

「リリスさんはこのなかに避難できないんですか!? できるなら僕の血を飲んで傷を治してください!」

 それはたしかに魅力的な案だった。けれど。

「ほんとうにいいの? 死ぬかもしれないわよ?」

 疲労と傷と出血。これらに対処するにはそれなりの量の血液が必要となる。

「構いません!」

 即答だった。

 あまりにも簡単に答えられて逆に怒りが湧いてくる。どれほど気を使っているのか気づきもしないで。そんな風に胸中でブロルを罵倒しながら振り返ったリリスは、覚悟を決めた瞳がまっすぐ自分に向けられていたことを知った。

 舌打ちして、気力を振り絞る。

 ブロルたちを守るための結界の側まで戻ると、リリスは魔獣を蹴散らしながらそれより一回り大きな円を足を使って地面に描いた。あらたに取りだしたタガーを一本起点に突き立て、円の内側に剣先をつかって魔文字を書き記していく。こちらもぐるりと一周書き終えたリリスはホッと一息ついてブロルと向き合った。

「ほんとうにいいのね?」

「はい」

 決意は固いようだ。どちらにしてもこのままでは共倒れ。四の五の言っている暇はない。リリスも覚悟を決めた。

「あのっ」

 首筋に牙を立てようとしていたリリスをとどめたのはペトルだった。

「僕の血も飲んでください。半分ずつにすればもしかしたら死なずにすむかもしれないでしょう?」

 ブロルと違って、ペトルはわずかに震えている。けれどここで口にしたからには引きはしないだろう。そもそもリリスを追ってここまで一緒に来ているのだから。

「わかったわ。私も無駄に人殺しをしたいわけじゃないからそうさせてもらうわ」

 そう答えれば、ペトルはこわばっていた肩から力が抜けていた。

(お人好し)

 そんな一言がリリスの脳裏に浮かぶ。しかしなにも言わずに今度こそブロルの血を飲み始めた。命にかかわるぎりぎりのところまで吸血してから、傷口を舐めて止血する。その次はペトル。同じように際まで吸いきった。さすがに二人とも貧血を起こしてその場に座り込む。

「座ったままより、目を閉じて横になったほうが治りは早いわ」

 リリスの助言に彼らは素直に従った。そうとう辛いようだ。ここまでされたのだ。自分も役割を果たさなくてはならないだろう。目を閉じて深呼吸を一つ二つ三つ。魔力を全身に巡らせて疲労回復と傷の治癒を同時におこなう。目を開けたリリスはいっきに結界から飛びだして魔獣たちに切りかかった。

 最小限度の力で魔獣たちを屠っていく。動けなくなった魔獣はトドメを刺さずに放置した。素早さと洞察とで殺すことよりも攻撃してこれないようにすることを優先させたせいで、なんとかすべての魔獣を地に横たえさせることができた。今のところ攻撃を仕掛けてきそうなものの存在は感じられない。

 リリスは今のうちにと、結界を補強するようにさらに外側に正四角形と、正三角形を二つと、それらすべてを囲む円を描いた。

「これで少しは休めるかしら」

 さすがにきつかった。肩で息をしながら一番内側の正三角形のなかに入ったリリスは、ブロルやペトルのようすを一瞥してから地面に座り込んだ。気絶でもしたのか二人揃って眠っているものの命に別条はないようだ。

 リリスは闇の剣を地面にたてて、柄頭に額をのせるような格好で脱力した。体力が底をつきかけており、顔を持ち上げることさえすでに危うい。

 そこへ新たな存在が現れた。

「ずいぶん疲れているようだね」

 リリスは弾かれたように顔をあげた。目の前には魔法杖に横座りして浮遊している魔女がいた。老婆のようなしわがれた声をしているものの、外見は若い女性でしかない。十代とも二十代とも見て取れる謎の存在。闇色のローブをまとってフードを被っているものの、そこから覗く手や顔の肌はみずみずしい張りとうるおいがある。ただ髪が白髪で、声がしわがれているだけなのだ。そこだけがリリスよりはるかに永い時を生きてきているのだと物語っているようではあった。

「きてくださったのですね」

 声がややかすれてしまったのは許してほしい。いくら血を飲んだとはいえこれだけ動けば疲れないわけはないのだ。もっとも魔女も気にしたようすはなかったのでリリスとしては一安心だ。

 円の内側に書いた魔文字は、この魔女に助けを求めるための呪文だった。発動させるための贄は切り倒した魔獣たちが流した血。魔女は周囲に転がる無数の魔獣を見渡した。未だに息をしている魔獣もいるものの動けるものは皆無だ。そのうちすべての魔獣がむくろへと成り果てるだろう。もとはただの動物。闇の獣のような印もなければ、魔の核もない。命が尽きればそれまでだ。魔力が消えてただの動物の死骸へと戻るだけなので、放置したとしても時間とともに自然へと返っていくだろう。

 魔女が静かに囁く。

「森中の動物を魔獣化したようだね」

「どうしてこのようなことに……」

「おまえが追っている相手がここに来たのさ、私を殺しにね。もっともその前に姿を消してやったから、腹いせと、こうやって私を訪ねてきたものを片付けるための置き土産だろう。私のところにくるものは魔しかいないからね」

「ご存知なのですか? アルベルトが召喚した悪魔をつかって魔を滅ぼそうとしていることまで」

「魔女だからね」

 あっさりと言ってのけた魔女はけれど、それまでの凛とした態度から一変してどこか悲しそうに目を伏せた。

「もっともすべてを知ることなど私にだってできやしないけれどね」

 自身がかかわることであればひらめきのごとく天啓を得ることはある。しかしそれだけ。それでも狙われやすい魔女という存在でありながらここまで生き延びてきたのだから、たいしたものではあったが。特に彼女のように命中率の高い占いの力をもつ魔女は慕うものの多さに比例して、邪魔に思う存在もまた多大だった。

「さて」

 弱った体はややもすると心まで引きずって沈んでしまいがちになる。しんみりとした空気を一言で振り払った魔女は、眠ったままの人間の側に近づいた。

「まずはこの子たちを帰してやらないとね」

「どうやって……」

 闇渡りの応用で人を任意の場所に移動させることができる魔もいる。けれどリリスにその力はないし、魔女も魔と物しか対処できなかったはず。ペトルたちがすでに死体となっていれば『物』として扱えたが、生きているからには、そして『帰す』ためにはその方法は使えない。ほかの誰か、もしくはなにかの手を借りなければ。

 魔女にはその『手』があるのだろうか。

「どうもなにも、ここに来たときと同じ方法で帰すしかないだろう。おまえも知っているだろう? 私は生きた人間は運べない」

 たしかにそうだ。ただもしかしたらそれが可能なツテでもあるのかと、魔女の物言いから勝手に誤解してしまっただけ。リリスはさらに疲労が増した気がした。

「そう、ですね」

「なるほど。そうとう疲れているようだね」

 顔色が悪い吸血鬼を見て、魔女は懐に手をいれると三本の小瓶を取りだした。

「一人一本、三人分の疲労回復薬だが、いるかね?」

「なにと交換でしょう?」

 魔女がなにかをただでくれるはずはない。必ず代わりになるなにかを要求してくる。金銭以外のものを。

「三本分と同じ量だけ、おまえの血をよこしなさい」

 リリスが了承すると、魔女はあらたに空の瓶を取りだした。タガーをつかって指に傷をつけると、流れでた血を瓶に溜めていく。

「いいだろう」

 魔女の制止の声がかかったところでリリスは傷口を力で塞いだ。渡された三本の瓶の一つをまず自身が飲む。あとはブロルとペトルを起こして、回復薬だと告げながら手渡した。未だ空中に浮かんだままの魔女を警戒しているようすはあったが、リリスが再度勧めると、観念したように二人同時に飲み干した。効果はてきめんにあらわれた。彼らの驚きの表情を見ていればなにも聞かなくてもわかる。目を瞠って手を握ったり開いたり。かと思えば腕を回したり、その場で足踏みをしたり。どの動きもなめらかで移動に支障がないことは一目瞭然だ。いつまでも確認作業を続けていそうなブロルたちの気を引くために、リリスは軽く手を叩いた。

「時間が惜しいわ。確認はそれくらいでいいでしょう? 駅までは送るからあとは自力で帰ってちょうだい」

 反論しかけたペトルの声を押し留めるようにリリスはきつい口調で言い切った。

「邪魔なの」

 今まではどちらかと言うと足手まといといったところだった。だがここからさきは違う。

「魔女が運べるのは魔と物だけ。あなたたちを一緒に運ぶためには死んでもらわないと無理なの。でもそれじゃ運ぶ意味もないでしょう?」

 生きているから家に帰そうとしているのだ。死体になってしまったのならそんな面倒なことはしないで放置すればいいだけのこと。もともと何度も帰れと言ってきたのだ。人の忠告を聞かなかったのだからそれに対してなにを言われる筋合いもない。

 実際のところ、駅まで送ることすらかなりの譲歩なのだ。時間が惜しい。それはリリスにとって切実な感情。むしろここで彼らを殺してしまえば煩わしいことに邪魔をされることなくゴドフリーのところに行けるのに。心のどこかではそんな無情なことすら考えてしまっているほどに気持ちは焦燥しているのだ。

「ごめんなさい」

 ようやくリリスの本音が伝わったのか。ブロルとペトルは吸血鬼に向かって頭をさげた。自分たちの行動はただわがままを押し付けて邪魔をしているだけなのだと気づいたようだ。それが容認される状況もないわけではない。しかし今はゴドフリーというリリスにとってかけがえのない存在が天秤に掛けられている。ブロルたちが身勝手な行動をとればとるほどその天秤はバランスを失ってしまう。

 邪魔をしないこと。それだって立派な手伝いであり応援の仕方だということは若いうちはわかりにくいかもしれない。けれど今の彼らにできる最大の手助けは、今回のことは忘れておとなしく家に帰って人としてあたりまえの日常を過ごすことなのだ。リリスが最初に告げたとおりに。つい先走ってしまう気持ちを抑えてなにもせずにいること。それは多大な労力をともなう割には実がないように見えて誰しもが動くほうを選んでしまう。そうして取り返しのつかない事態を招くのだ。魔獣を倒すために血をもらったことはまったく評価にはつながらない。失点をわずかに減らしただけ。落ち度はなかったことにはならない。リリスを危険な目にあわせただけでなく、もしかしたら肝心のゴドフリー奪還の機会を消してしまったかもしれないのだ。彼らはこの失敗を一生抱えて生きていくことになるだろう。それもまた彼らの人生だ。

 教えられることはすでに口にしてきたリリス。魔女ははなから相手にしない。彼らは魔女に払える報酬を持っていないから用はない。ブロルとペトルは自分たちの行動を恥じているのかどうなのか、以後はなにも話そうとはしなかった。だからチェコへと戻る列車の駅に着くまで誰も口を開かなかった。

「ここからなら帰れるでしょう?」

「はい」

 言葉少なく返事をしたブロルたちは、リリスと魔女に一礼すると駅の構内へと向かった。


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