闇の火種
「モルジェルはイレルダン峡谷の奥へ退きました。」
魔族部隊の偵察兵が、モルジェルがイレルダン峡谷の奥へ姿を隠したことを報告する。
モルジェルは黒き啓示を発動したにもかかわらず魔族部隊に勝てなかったため、やがて門を諦め、さらに奥へ入ってしまった。
イレルダン峡谷へ通じる唯一の門である。
価値を考えれば簡単に退くことはできないにもかかわらず、モルジェルは退く。
つまりモルジェルには、さらに重要な何かがあるという意味である。
「ですが、すぐに追撃するのは危険です。」
ヴィティアが反対する。
「そうですね。ヴィティアの言う通り、闇は彼らに非常に有利です。」
セルベインも同意する。
「それなら朝に動くのがよいでしょう。」
ベルマウルがうなずきながら部下に防衛線と野営地を準備させる。
「ところで、イレルダン峡谷に朝は来るのでしょうか? 朝になっても光がないことに変わりはないのですから。」
アイオレンが首をかしげながら、自分の意見を慎重に口にする。
すると全員がしばらく言葉を失う。
それでも夜明けが訪れると、イレルダン峡谷の入口に垂れ込めていた暗い影は少し短くなる。
もちろん、だからといって峡谷の中の暗い場所まで光が差し込むわけではなかった。
朝になるとセルベインがイレルダン峡谷を再び見回す。
モルジェルは闇の中でも視力を失わない。
魔王アスペルハイムの力である。
モルジェルが魔王アスペルハイムに自らの魂を売り、その代価として受け取った能力の一つだ。
セルベインが精霊眼を発動する。
大半の人は単一の目だけを使っているため、その状態に慣れてしまい、結果として目が本来持つ他の機能を忘れてしまう。
光を基準にすれば、目は赤・緑・青の三重の映像を分離することができる。
しかし大抵の場合、その能力を失い、三つの色が合成された視界だけを使う。
魔法呪文によって世界を様々な色に分離して見ることはできるが、精霊眼に慣れていない場合は焦点が合わず、ぼやけて見えることになる。
焦点が合い像がはっきりと見えるためには、魔法呪文だけでなく、普段からも精霊眼をうまく使えるよう継続して練習しなければならない。
練習次第で精霊眼の能力はいくらでも拡張でき、セルベインの場合は精霊眼が両目に制限されず、周囲の空間すべてを投影して見られる水準にまで達していた。
セルベインが投影された映像をイレルダン峡谷へ集中させると、イレルダン峡谷の暗い谷の少し奥まで鮮明に見える。
もちろん精霊眼もあくまで目の機能であるため、一般的な視界距離以上まで見られるわけではなかった。
そのうえ、イレルダン峡谷に満ちる黒い波動の干渉によって、峡谷の深部は映像が鮮明ではない。
幸い、セルベインが精霊眼で見た視界範囲内に、セルベイン一行を監視するモルジェルはいない。
イレルダン峡谷の内部は光を飲み込む空間である。
魔法呪文で照らさなければ肉眼では何も見えず、長くいれば精神さえも暗い気配に蝕まれてしまう、そのような不吉な呪いに満ちた場所であった。
「これからは私たちだけで移動します。」
セルベインが言う。
元々は、全兵力を動員して一挙にモルジェルを一網打尽にするという計画だった。
ただし、部隊を戦術隊形で移動させるには非常に狭隘な地形的限界と、谷に溢れ返るダルガンの手、その呪いの魔法によって、魔族部隊にも被害が予想される状況である。
そのため全面攻勢から作戦を変更し、セルベイン一行が先に進入し、魔族部隊は峡谷の入口に包囲網を形成してモルジェルの逃走を防ぐことにする。
中核戦力としても、セルベインとアイオレンが一般の魔族兵士よりはるかに優れているのは当然であった。
「防衛線を構築し、万が一のモルジェルの行動に注意するようにしてください。」
ヴィティアが魔族部隊指揮官たちに後方防衛を準備させる。
後方防衛とはいっても、もしモルジェルが谷の内と外から挟撃してくれば、魔族部隊の防御陣地はすぐに最前線となる。
またモルジェルがイレルダン峡谷から逃走する場合、魔族部隊が防衛線を構築した峡谷入口が唯一の通路であるため、可能な限り多くのモルジェルを生け捕りにして、魔王追従者たちの情報も確保することができる。
モルジェルが何をしでかすのか誰も分からない状況であるため、ヴィティアは部隊指揮官たちをさらに厳しく引き締めている。
「ヴィティアお姫様。重要な任務、お任せください。油断せずモルジェルに対して万全の態勢を整えます。」
ヴィティアの指示に、魔族兵士たちが自信を見せる。
任務だけを見れば、谷の中へ入る恐怖よりは容易な仕事だった。
そうして作戦を変更し、セルベイン、アイオレン、ベルマウル、そしてヴィティアの四人がイレルダン峡谷の深い深淵へ向けて足を進める。
先頭にはベルマウルが立つ。
「セラフィエル・ガーディアン。」
ベルマウルが通常の光の魔法呪文を唱えると、彼の前に大きな光の盾が作られる。
輝く光の盾はひときわ燦然たる光を放ちながら周囲を照らし、濃い闇を強く押しのける。
ベルマウルのセラフィエル・ガーディアンは普通の場合より魔力量が高かった。
セルベインとアイオレンはベルマウルの後ろで、ベルマウルが召喚した魔法の盾セラフィエル・ガーディアンを注意深く見ている。
セラフィエル・ガーディアンの前方は足の届く道を照らし、明るい光によってその後方には深く濃い陰影が作られる。
セルベイン一行はこの陰影に覆われた空間に隠された。
「光と影を同時に活用するとは、思いつかなかった方法ですね。」
アイオレンが感嘆する。
「光は方向を導き、闇は正体を隠してくれる。ベルマウル将軍が考え出した賢明な活用です。」
ヴィティアは鼻が高い。
「ベルマウル将軍は魔力増幅をいつ学ばれたのですか?」
アイオレンがそれとなく尋ねる。
一夜のうちに、アイオレンのベルマウルに対する距離感は大きく縮まっていた。
アイオレン自身がベルマウルより年上であることはもちろん、ヴィティアの友人であるという点も親近感を急速に高めるきっかけとなった。
そのため今では、アイオレンははるかに気楽にベルマウルに接している。
ベルマウルは将軍という呼称も外してもっと気軽に呼んでほしいと言ったが、セルベインとアイオレンはそれではあまりにも不自然だとして断った。
実際にはヴィティアがベルマウルと呼ぶことと重なるため、混同を避けるためにセルベインとアイオレンは将軍という表現を残したのだったが、その深い意味をベルマウルだけが知らなかった。
「さあ、どうでしょう。母上から魔法の使い方を学んだこと以外にはありません。」
そう話しながらもベルマウルは前方の警戒を解かず、慎重に見回しながら歩みを進める。
「それでは、そのコードはどうなのですか?」
セルベインが再び尋ねる。
「コード……ああ……そうですね。考えてみれば、コードが頭の中に浮かんでから魔力が強くなったような感じはあります。」
ベルマウルがセルベインの言葉に記憶を辿る。
ベルマウル自身はあまり重要に考えていなかったが、考えてみればコードが浮かんで以降、一度も学んだことのない魔法呪文を使えるようになった事実を思い出す。
「そういえば、コードと共に学んだこともない魔法呪文を使えるようになりました。」
ベルマウルは光の盾を少しずつ左右に揺らしながら、左右側面の視界を確保する。
夜間威力偵察で使われる、閃光残像歩法という進軍方式である。
空間に光を一時的に照らした後、暗くしてから再び光を照らすと、光の残像が残ることになる。
もし閃光残像歩法の最中に前方に動きがある場合、二度目の光の残像が一度目と重ならないため、視線が意識的にその部分へ集中するようになる。
そのため敵の動きをより容易に知ることができた。
ただし魔力と体力の両方を消耗するため一般兵士は使用しないが、ベルマウル級の将軍たちは野戦時に敵の存在を探る際に用いる技術である。
「コードと共に記憶された魔法呪文なのですね。」
セルベインは周囲を見回しながらも、ベルマウルの言葉を深く考える。
「そのほかにはどんな魔法呪文が思い浮かびましたか?」
アイオレンが再び尋ねる。
「さあ。変に聞こえるでしょうが、意識的に考えると実は思い出せるものはありません。どうしても必要な時に本能的に浮かぶことが多かったのです。」
セルベイン一行はベルマウルの言葉を道連れにしながら、静まり返った空間を進んでいく。
イレルダン峡谷は奥へ入るほど道はさらに狭くなり、さらに静かになる。
もちろん非常に暗く、そして冷たい。
その冷たさは天候が寒いことを意味するわけではなかった。
温かなぬくもりを持つ生命であるからこそ感じられる冷たさであった。
ダルガンの手、その呪いの根源に近づくほど呪いの気配は濃くなり、生ある者を死へと追いやっている。
セルベイン一行は、たった今冷たさだと感じたものが、すなわち死であることを悟る。
そして、すすり泣く声が聞こえてきた。
「師匠。前方に何かがあります。」
アイオレンがセルベインにささやく。
セルベインは右手を上げ、ベルマウルの右肩にそっと手を置く。
ベルマウルはすぐその場で静かに立ち止まった。
前方の闇の中で動く姿形が見える。
自らの周囲を巡り、うろつき、また座り込み、じっと立っており、姿形は複数あるが、セルベイン一行を攻撃する意思はないように見える。
「魂たちです。」
セルベインの言葉に、皆が立ち止まり、セルベインの次の指示を待つ。
今回のモルジェル討伐任務は魔族主導で始まったが、現在はさらに上位者であるセルベインがいるため、指揮は自然とセルベインが担うことになった。
「ダルガンの手によって犠牲になった、その犠牲者たちの魂です。呪いの力によって行くべき場所さえ分からなくなったのです。」
ベルマウルが光の盾を大きく動かしながら周囲を見回す。
「ダルガンの手。その呪いの魔法の影響によって、魂たちには目がありません。」
言葉とともに、アイオレンが魂の姿を見つめる。
「ダルガンの手、その呪いの魔法によって死ぬと、呪いによって魂に残っている光までもすべて焼き尽くされて消えてしまいます。最後の瞬間になると生命は目に集まりますが、その光を失ったのです。そして魂は、もはや生命の光を見ることができません。」
セルベインは故人を哀悼しながら、低い口調で答える。
「生命の光を見ることができないので、行くべき場所へ歩くことができず、その場をさまようことになるのですね。」
アイオレンも痛ましく思う。
当然の話だが、犠牲者たちのほとんどは魔族である。
ヴィティアは悲しみよりさらに大きな怒りを覚える。
「母上。」
ヴィティアの闘気が敵に付け入る隙を与えかねないため、ベルマウルは急いでヴィティアを呼ぶ。
「うん。私は大丈夫。」
ヴィティアは怒りの表情のままだったが、冷静に自分の身体から闘気を消す。
不思議なことに、魔族の王ナルジェオスでさえ手を焼くこのおてんば姫は、ベルマウルが呼ぶと正気を取り戻した。
「魂が行くべき場所を失い、その場に留まっているため、彼らは永遠に魔王アスペルハイムの封印石へ力を伝える媒介となってしまったのです。」
セルベインの言葉通り、谷の奥深くにあるダルガンの手から始まった黒い波動は、善良な魂を道しるべとして、イレルダン峡谷の外、正確には魔王アスペルハイムの封印石まで繋がっている。
「この人たちをこのままにしてはなりません。」
アイオレンが助けたいという眼差しでセルベインを見る。
「もちろんです。アイオレン。ダルガンの手を止めるためにも、まず魂から救わなければなりません。」
セルベインは右手を上げて魔法呪文を唱える。
「イルヘナ。」
たちまちセルベインの指先が輝き、明るい光を放つ球がいくつも生まれる。
輝く球たちはセルベインの手を離れ、魂たちの前に一つずつ止まった。
「皆さんの前に温かな感覚があるはずです。それをつかんでください。聖なる火種が皆さんをミルハレンへ導いてくれるでしょう。」
セルベインの言葉がイレルダン峡谷のすべての魂たちへ伝えられる。
「イルヘナ。」
アイオレンも同じ呪文を唱える。
アイオレンもセルベインの承認によって、エルネドでのイルヘナ魔法呪文の使用が可能になっていた。
アイオレンの手からも光る球が作られ、その球たちは魂たちの前へ進んでいく。
「ミルハレンへ向かって歩く時、火種は温かいでしょう。しかしその道から外れれば冷たく冷めるはずです。皆さんの目はすでに治すことができません。ですがイルヘナの光が温かなぬくもりとなって、ミルハレンへ向かう皆さんの足取りを守ってくれるでしょう。さあ、勇気を出してください。」
セルベインの言葉が再びイレルダン峡谷に響く。
セルベインとアイオレンは犠牲者たちの魂に力を与えることはできたが、歩くことは完全に魂自身の役目であった。
どれほど長い間ダルガンの手に捕らわれていたのかは分からない。
魂たちですら生を諦め、もはや動こうとしないかもしれなかった。
そのためセルベイン一行は、彼らが再び勇気を出してくれることを願いながら、魂たちを待つ。
一つの魂が手を伸ばし、光の球に手が触れる。
そして、その温かなぬくもりに魂が微笑む。
「何年ぶりだろうか……」
その魂が声のあったセルベインの方へ向き直る。
目のない魂は頭を下げ、感謝の挨拶をした。
そして、たとえ見えない目であっても、手にしっかり握ったイルヘナのぬくもりを道しるべとして、一歩また一歩と歩き始める。
自分を縛っていたダルガンの手、その呪いの媒介地から離れて歩き始める。
魂たちは一人また一人、ゆっくりと、しかし確実に光の流れへ向かって歩き始める。
「ミルハレンは、魂が必ず帰らなければならない場所です。そしてその旅路は、誰にも代わってあげることのできない道です。」
セルベインが魂たちへ向けて静かにささやく。
アイオレンとヴィティア、そしてベルマウルが、旅立っていく魂たちの冥福を祈った。
特にヴィティアの温かい心が、より多く魂たちへ伝わる。
一人ずつ、ゆっくりと、魂たちは光に従って消え始めた。
「師匠。世界は残酷です。死んでも自ら歩いて行かなければならないなんて。」
後ろを振り返ったアイオレンの目に涙がにじむ。
皆がしばらく言葉を失う。
「ダルガンの手。その呪いの魔法が問題なのよ。生きている者の目を抉り取り、殺し、そのせいで魂さえ動けなくしてしまうのだから! 絶対に許せない。」
ヴィティアが歯をぎりぎりと食いしばった。
再び闘気が立ち上るヴィティアだったが、今度はベルマウルも止めない。
その代わり、ベルマウルは自らの腰に佩いた剣の柄を力強く握り締めた。
「たとえ多くの時間がかかることはあっても、魂は間違いなくイルヘナの光、その導きに従ってミルハレンへ到着することができるでしょう。」
セルベインが言う。
「もう行きましょうか。」
セルベインの言葉に、一行は再び歩き始める。
峡谷の闇は相変わらずだったが、目で見る光だけが光ではない。
心に抱いた光は今、さらに遠くまで届いており、その光は勇気となって魂たちの足取りに力を添えていた。




