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侵食の隙間

イレルダン峡谷。


そこはエノール大陸においても最も辺鄙な場所であり、また最も深い谷である。


イレルダン峡谷はあまりにも深いため、今まで一度たりとも光が届いたことがない。


昼に輝く日光も、夜にきらめく星明かりも、イレルダン峡谷のその深い奥まで光を照らしたことはただの一度もなかった。


そして今は、その峡谷の暗闇の深い奥側から黒い波動が外へ押し出されてきている。


魔王の封印石から発散される黒い波動と同じ魔力である。


魔王追従者であるモルジェルたちが、イレルダン峡谷の最も深い場所で呪いの魔法陣「ダルガンの手」を準備していた。


「ダルガンの手が完全に発動する前に止めなければならない。」


ベルマウルが隣にいる部下へ低く囁く。


偵察部隊の報告を聞いた後、ベルマウルはこれ以上待つ時間はないと判断する。


ベルマウルの声には少しの焦りとせっかちさが見える。


しかし、イレルダン峡谷へ入る道はただ一つだけだった。


そして狭くて狭い峡谷の入口は単なる通路ではなく、堅固な門のように頑丈だった。


そのうえモルジェルたちは入口に低い城壁を築き、峡谷の入口へ最大限に集まっていた。


反対にベルマウルの魔族部隊は平原の上にそのまま露出している。


イレルダン峡谷入口の前方は見渡す限り開けた荒野だ。


そのためベルマウルの魔族部隊には最初から隠れる場所がろくになかった。


それに比べてモルジェルたちは、ベルマウル率いる魔族部隊の動きを完全に視界へ収めている。


モルジェルから隠れる場所も避ける場所もろくにない荒野であるため、最初からベルマウルはモルジェルの前へ堂々と部隊を全面配置した。


広く開けた荒野に、ベルマウルが率いる魔族部隊がぽつんと置かれていた。


モルジェルが容易にベルマウルの部隊状況を知れる欠点はあるものの、その分ベルマウルもまたモルジェルの攻撃を容易に察知できるという利点もあった。


「部隊を二つに分けて陽動作戦を行うのはいかがでしょうか?」


部下が部隊を二つに分けた陽動作戦を勧めるが、ベルマウルは受け入れない。


「今は部隊戦闘力を最大限維持する方が良い。あの中には間違いなく黒い啓示もいるだろう。」


ベルマウルは城壁の上のモルジェルたちを見ながら、黒い啓示の存在を予想する。


「黒い啓示ですか?」


部下が慎重に尋ねる。


「そうだ。魔王アスペルハイムから力を得る狂信者たちだ。その代償は自分の魂だが、まあモルジェルたちはむしろ自分の魂を神へ捧げるのだから、喜んでさらに暴れ回るかもしれんな。」


ベルマウルの言葉に別の部下がうんざりした顔をする。


黒い啓示は単なる狂信者ではない。


黒い啓示になった瞬間、彼らは魔王の魔力である黒い波動を全身にまとった怪物となる。


一度黒い啓示へとその姿が変われば、モルジェルは再び元の姿へ戻れない。


理性を失ったまま、自らの命がすべて魔王へ吸収されるまで周囲へ黒い波動を撒き散らし、与えられた命令に従ってただひたすら破壊行為を続けるだけである。


「黒い啓示の数が多い場合、我々だけでは対処不可能です。今すぐビティア姫殿下へ支援を要請しなければなりません。」


ベルマウルも部下の意見に全面的に同意する。


そうでなくともベルマウルは部隊の安全のため、魔族国の首都カルバルオンへ援軍を要請するつもりだった。


ベルマウル単独ならともかく、部隊を率いる将軍という立場から見れば、無理に動くより部下の安全も考慮しなければならない。


このまま多数の黒い啓示を相手にすれば、部隊に大きな犠牲が出る可能性があった。


ベルマウルは黒い啓示などという取るに足らない存在のために、大切な部下たちを失いたくなかった。


だがベルマウルが攻撃しないでいると、モルジェルたちが先に動く。


「チッ!」


ベルマウルはモルジェルの先制攻撃に不意を突かれ、軽く舌打ちする。


黒い啓示たちが低い城壁を軽々と乗り越え、地面へ降り立つ。


魔王アスペルハイムが、ベルマウルが時間を稼ごうとしていることを見抜き、先制攻撃を放った。


「ドン! ドン! ドン! ドン!」


黒い波動を身にまとった黒い啓示たちが、ベルマウル率いる魔族部隊へ向けて突進し始める。


さらに速く走るため、一体の黒い啓示が身体を屈め、獣のように四足で走り始める。


ベルマウルが射程内へ入ると、その黒い啓示は右前足を振り上げ、黒い波動が漂う鋭い黒色の爪をベルマウルへ向かって振り下ろした。


「グアアアアッ!」


黒い啓示は溢れる狂気を身にまとい、暴走する黒い波動の魔力によって怪声を上げる。


その姿はもはや生きている者のものではなかった。


ベルマウルのすぐ隣の魔族兵士が恐怖に取りつかれ、その場で凍り付く。


兵士は動けないまま、恐怖の中で自分の最期の瞬間を見つめる。


片方の爪で既にベルマウルを狙っているが、その黒い啓示は反対側の爪でもその兵士を狙っていた。


「油断するな!」


しかし黒い啓示がその爪で兵士を攻撃する直前、ベルマウルが素早く移動して兵士の前へ立つ。


そしてベルマウルは素早く自らの剣を抜いた。


「このベルマウルだけでは足りず、私の目の前で見せつけるように他の兵士にまで手を出すか! 私にはまだ学ばねばならぬことがあったのか!」


素早く迫る黒い啓示の爪を、ベルマウルの剣が光の速度で迎え撃つ。


ベルマウルの剣に付与されている火炎魔法が、黒い啓示の爪と衝突した瞬間、黒い啓示側へ噴き出し追加の火炎ダメージを与える。


しかし黒い啓示は意にも介さず、ベルマウルが振るった剣をそのまま掴んで止めた。


さらに火炎ダメージもなく、傷も負っていなかった。


「クククク。」


しばらくして黒い啓示は邪悪な笑みを浮かべ、溢れる力でベルマウルの剣を握り締め、そのまま投げ捨てる。


ベルマウルは反射的に剣から手を離し、剣と一緒に飛ばされないよう相手との距離を取り、後ろへ二、三歩退く。


そして冷静に目の前の黒い啓示へ注意を向けながらも、周囲の状況を把握していた。


右の遠方で、また別の兵士一人が黒い啓示の前へ無防備に晒される。


「シルペンダー!」


その姿を見てベルマウルが魔法の呪文を唱える。


ベルマウルの魔法呪文によって、まもなく吹き荒れる風の渦が兵士の前に作られ、発動した風の結界の力が魔族兵士を後方へ力強く吹き飛ばす。


魔族兵士がいた場所を黒い啓示の右腕が通過し、そのまま地面へ突き刺さった。


「師匠、エルフ魔法シルペンダーです!」


アイオレンが驚いて言葉を続けられない。


今到着したセルベインとアイオレンが、ベルマウルのシルペンダー魔法を見て驚く。


ベルマウルが使用した魔法呪文は魔族のものではなく、エルフのものだった。


しかし、それよりさらに驚くべき光景が次の瞬間訪れる。


ベルマウルが右手を空中へ伸ばす。


そしてベルマウルは剣なしで魔法呪文を唱える。


「イスカ・ロック!」


すると空に多数の光の槍が現れる。


数十本の光の槍には、その一本一本に地上の不浄なる存在を滅する強力な威力が付与されていた。


槍たちがすぐに大地へ向けて降り注ぐ。


光の槍が黒い啓示たちの身体を貫いて大地へ突き刺さると、黒い啓示たちは苦しむが、身体を拘束され動けなくなる。


「今度は聖槍魔法、イスカ・ロック!」


アイオレンが信じられないという表情でセルベインを見上げる。


「あの方がベルマウル将軍なのですか。」


セルベインがビティアへ尋ねる。


「はい、師匠。魔族部隊を率いるベルマウル将軍で間違いありません。」


ビティアが誇らしげにうなずく。


「そして私の腹心であり、私の右腕でもあります。」


もう少し自慢したい気持ちで、ビティアの顎が上がる。


しかしセルベインの表情は微妙だった。


「あり得ない。シルペンダーは……そしてイスカ・ロックはエルネドと繋がった者だけが使えるエルフ固有魔法だ。しかもイスカ・ロックはエルフ高位攻撃魔法で、エルネドの承認権限がなければ発動しないよう封じられているというのに。」


アイオレンは現実を受け入れ難そうにしながら、ビティアの肩を両手で掴み激しく揺さぶる。


「そうなのか? エルフ魔法はよく分からないが、魔族がエルフ魔法を使えるはずがないだろう?」


揺さぶられる身体のままでも、ビティアは言うべきことをすべて言う。


「ならどういうことなんだ?」


揺さぶるのを止め、理解できないビティアの答えにアイオレンが再び尋ねる。


「ベルマウル将軍は魔族ではないということですね。」


セルベインがついに状況を理解する。


それでもエルフ魔法が発動したことへの疑問はまだ解けていなかった。


ベルマウルに直接会わなければならない理由が生まれる。

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