光の遺産
イレルダン峡谷から見上げる空は、はるかに近くにある。
魔王アスペルハイムがモルジェルを利用して準備してきた魔王剣ネビラクは、ベルマウルの魔法呪文エルセリオンによって砕かれ、ネビラクを利用しようとする計画もそのようにして水泡に帰した。
だが、だからといってすべてが終わったわけではなかった。
魔王アスペルハイムの黒い波動は、次第にエノルの世界に適応しており、そのようにして親和力が高まっていた。
したがって弱くなった封印石は、依然として魔王を封印する力を失い続けている最中である。
いつもそうであったように、魔王はあきらめないだろうし、一度の戦いが終わってもまた別の戦いの準備を始める。
ビティアの命令によって、魔族部隊がイレルダン峡谷を捜索中である。
モルジェルが使用したダルガンの手、その呪い魔法の痕跡を探すためだった。
しかし、もうエルセリオンの光の波動によって焼き尽くされた呪いの魔法陣は、その痕跡すら残していなかった。
エルセリオンの光はあまりにも美しく、またあまりにも完璧にすべてを消滅させる。
「くぅっ。ベルマウル将軍様がお使いになった魔法呪文はほんとは闇の魔法だった!」
一人の魔族調査員が口を開くと、別の調査員がうなずきながら100%同意する。
「その通りだ。いかなる黒い波動も残っていない。この強力な魔法秩序は光の魔法ではない、こんな大変なことになったら闇魔法と言うべきだ!」
別の調査員が地団駄を踏んでいる。
口では文句を言っているものの、魔族調査員たちは事件の手がかりを見つけるためにあちこち忙しく動き回っている。
しかし、手掛かりがないことが明らかな現場で何かを見つけなければならないという矛盾は、まさしく魔族調査員たちに、自分たちが闇魔法にかけられそうな切迫感を与えている。
「いつ定時で上がるんだ! 俺を家に帰してくれ~!」
魔族調査員たちの恨み言は、ブーメランのようにベルマウルへと返ってきている。
「ハクション!」
そのため、確かに風邪ではないのだが、くしゃみの多いベルマウルであった。
光が呪いを残らず飲み込んだ現場。
しかし魔族調査官たちは、完全に浄化されたその空間で今日も熱心に黒い波動の手掛かりとダルガンの手の呪い魔法陣の欠片を探して歩き回っている。
魔王を退け、封印石の封印を守りながらひとまず一息ついたが、セルベインとアイオレンはまだエルフ国へ戻っていなかった。
まだ解かなければならない謎が一つ残っていた。
それはまさにベルマウルのことだ。
「エルネドの魔法秩序に記録がない!」
最近、この言葉を言うことはアイオレンの習慣になっていた。
眠る前にも、目を開ける時にも、独り言を言う時にも、あるいは朝の挨拶をする時にも、毎回飛び出してくる叫びだった。
アイオレンは混乱している。
そして、その混乱は神経質な叫びとなって、毎朝城の中を揺るがした。
「エルネドの魔法秩序に! 記録が! ない!!!」
その日の朝も、アイオレンはがばっとベッドから起き上がり、寝間着姿のまま再び叫ぶ。
その叫びは石壁を伝って広がり、そして再び寝室の扉が勢いよく開いた。
「少しは静かにして! アイオレン!」
怒ったビティアは、まだ整え終えていない自分の乱れた髪を右手で整えながら顔をのぞかせて抗議する。
あわてて追いかけてきた侍女たちは、ビティアの髪を残りまで整えようと懸命に努める。
最近、ビティアの目には、誰かのせいで不眠の色が宿っている。
「あなたが叫ぶその台詞! その悲鳴のせいで城内に苦情書類が積み上がっているのよ。どれほどだったかというと、衛兵隊が昨日は葦を探しに草原へ出かけたくらいなんだから!」
ビティアがアイオレンの鼻先まで進み出て抗議する。
「葦は何に使うんだ?」
アイオレンは理解できない。
「あなたのために決まっているじゃない。『王様の耳はロバの耳』って叫ぶには葦が必要じゃない!あなたがどれほど叫んだら、衛兵たちが葦を探しに行くことになったんだ。」
ビティアは目で悪態をつきながら、上品に状況を説明した。
「エルネドの魔法秩序に記録がない……」
しかしアイオレンはビティアの抗議を聞き流し、この言葉と共に再びぼんやりした表情でベッドへどさりと座り込む。
「まったく……これは重症ね……」
ビティアはそんなアイオレンを見下ろしながら軽く舌打ちした。
ベルマウルが使用した魔法呪文エルセリオンについての情報を得るために、セルベインとアイオレンは各種の記録を調べた。
エルネド接続記録、非認可アクセス一覧、さらにはごく一部の者だけが知るエルネドのバックドアまでも綿密に調査する。
しかし驚くべきことに、ベルマウルという名前はエルネド全体で一度も登場していなかった。
たった一行の痕跡も、たった一文字のアクセスもない。
「あり得ない……それならいったいどうやってエルフ魔法を使ったんだ……」
アイオレンの疑惑は解決されなかったし、むしろ疑惑は次々と別の疑惑を生み、今では解くことのできない疑惑の循環の輪を作っている。
ベルマウルが使用したエルセリオン魔法呪文は、間違いなくエルフ魔法であるにもかかわらず、エルネドの魔法秩序には登録そのものがされていない。
セルベインはそれをエルネドの最上位魔法秩序であるルミア・パドレアと比較してみる。
そして分かったいくつかの事実があった。
「同じ属性ですが、その魔力は比較することさえできません。」
それがセルベインの結論である。
「それでは何倍くらい強いのでしょうか?」
アイオレンが興味を抱いて尋ねる。
セルベインは黙って右手を上げ、指を三本広げる。
「三千倍……」
エルフたちには指で数字を表す習慣があり、指一本は数字で千を意味する。
確実を期すため、セルベイン一行は魔族国の首都カルバルオンから少し離れた荒野へ行き、ベルマウルにエルセリオン魔法を再び使うようにさせた。
「エルセリオン!」
しかしベルマウルが全力で魔法呪文を唱えたにもかかわらず、エルセリオンは再び発動しなかった。
自信満々に叫ぶベルマウルのその格好良さが色あせるほどに、ベルマウルが最も格好いい姿勢で高々と天へ掲げた剣は、輝くどころか煙すら上がらない。
その情けない様子に、ビティアはベルマウルの頭を拳でこづいた。
そして再び一行は会議室に集まる。
重苦しい雰囲気が漂う。
「オホン!」
何か罪を犯したかのように恐縮して座るベルマウルと、不満を抱く三人の女性の間で、年長者である魔族王ナルジェオスが先に口を開いた。
「ベルマウル将軍をアルカリオンへ連れて行こうとしましたが、どうやらそこまでするのは無理な話でした。」
セルベインはこの言葉を口にしながら大いに残念がる。
「アルカリオンはエルフだけが入学するエルフ専用教育機関なので、実のところ他種族を受け入れた前例がまったくありません。」
研究対象であるベルマウルを連れて行けなくなったアイオレンにとっても、やはり悲劇的な通告であった。
「ですからベルマウル将軍のアルカリオン入学は、なかったことになりました。」
この言葉を口にするビティアは、なぜか明るい表情である。
「長老エルフたちが反対するので、私としても仕方がありません。」
セルベインは進み出てベルマウルを積極的に推薦したが、結局は長老エルフたちの反対意見を尊重することにした。
そうしてセルベインはベルマウルのアルカリオン入学計画を諦めなければならなかった。
そして魔族王ナルジェオスが新しい知らせを伝える。
「はっはっは。イレルダン峡谷はベルマウル将軍がきれいさっぱり片付けてしまったせいで、何も残っていなかったそうです。」
ナルジェオスは笑いながら言うが、右肘で隣席のベルマウルをつんつんと突く。
ナルジェオスの自然な笑顔とは違い、その目は無理やりの笑みである。
ベルマウルはさらに首をすくめる。
「ですので、ビティアとベルマウルを送って現地調査をさせるつもりです。二人はこの機会に人族の賢者の国ロデンミルへ行きなさい。」
「たしかにロデンミルですね。」
ビティアがうなずく。
人族の賢者の国ロデンミル。
そこには堕落した賢者ダルガンが呪い魔法を研究していた彼の塔、ネルマルクがある。
今は賢者たちによって封印された塔だが、それでもやはりダルガンの呪い魔法研究においてネルマルクは最も重要な手掛かりであることに違いない。
「ただしロデンミルは、他種族に対して非常に排他的な部分があります。」
気まずそうな表情とともに、ナルジェオスはセルベインの顔色をうかがう。
「やはりロデンミルですか。」
セルベインはナルジェオスが話し始める前から、なぜかその国だろうと予想していた。
人族の賢者の国ロデンミルは、他種族を非常に嫌悪し、さらにはその敷居さえ越えられないよう封鎖した。
長い時間が流れ、今では他種族と交流する人族が増えたが、結局そのためにロデンミルは二つの国へと分裂してしまう。
ロデンミル外人国は、他種族と交流するロデンミルの外側部分である。
ロデンミル内人国は、他種族が入ることのできないロデンミルの内側部分である。
そしてロデンミルの内側へ入る入口には、賢者たちが特別に作った結界門がある。
ルクナスと呼ばれる結界の門だ。
賢者たちの強迫観念が集大成されたルクナスは、他種族と接触したゴキブリすら区別してふるい落とすほど精巧なことで名高かった。
「ゴキブリすら入れないあの場所へ、また行かなければならないんですか!」
アイオレンがうんざりした表情で驚愕する。
門前払いではないが、ロデンミル内人国の本物の人族が他種族を見るその視線は、本当に耐え難い侮辱感を与えた。
「だから私たちは切り札を使わなければなりません。」
ビティアは、可能な方法はただ一つだと言う。
「そうですね。光の魔法によって完全無欠に浄化された状態のベルマウルなら、あの潔癖症の門も無難に通過できそうですね。」
セルベインもまた、ロデンミル内人国の人族が度を越していることをほのめかすように、ルクナスを“潔癖症の門”と呼んだりする。
「言うなれば身分を偽った潜入捜査ですね。」
ベルマウルも状況上、自分が最も確実な方法だと思った。
「ですから、セルベイン様がご一緒してくだされば良いのですが。」
ナルジェオスはそれとなくセルベインの意向を尋ねる。
「魔族王の狙いはそれでしたか。おそらく魔族王は、孫がロデンミルで国賓待遇を受け、特別室で寝ながら、楽にタ・ダ・で過ごすことがとてもお好みなのでしょうね。」
セルベインはナルジェオスの意図を悟る。
「ははは。世の中にタダが嫌いな種族などいますか。まあ、あえて弁解はしません。出張調査なのですから、せめて寝床くらいは快適でなければなりませんからね。」
ナルジェオスは王冠を外し、はげとはほど遠い豊かな自分の髪を気まずそうにかき上げる。
セルベインが同行すれば、一行全員がロデンミル外人国で手厚い国賓待遇を受けることができる。
ビティアとベルマウルが魔族国の王女と将軍という立場で行けば、どうしても警戒する視線が多くなり、調査に困難が生じるはずだった。
そのためセルベインの客人として身分を隠せば、その分調査もしやすくなり、当然ながら宿泊や食事の質も高くなるので、ナルジェオスとしてはセルベインに露骨に頼むだけの価値があった。
「なるほど。それも悪くはないかもしれませんね。」
幸いにもセルベインは素直にナルジェオスの頼みを聞き入れた。
「そうしてくださいますか。ありがとうございます。詳細な調査計画は……」
セルベインが許可すると、ナルジェオスはたいそう嬉しそうにしながら、詳細な調査計画をセルベインに説明し始める。
新しい旅の始まりである。




