【人面犬】
「タカヤ君って、本当に感じがいいよね」
職場でそう言われるたび、タカヤは困ったように笑った。
「いえ、そんなことないですよ」
真面目。
親切。
人当たりがいい。
それが、周囲から見たタカヤだった。
上司には逆らわない。
同僚の愚痴も笑顔で聞く。
困っている後輩がいれば、残業してまで手伝う。
誰もが言った。
「タカヤ君は優しい」と。
だが――
タカヤは、自分のことを優しい人間だと思ったことなど一度もなかった。
――
夜。
仕事帰り。
街灯の少ない住宅街を、タカヤは一人で歩いていた。
手には革の鞄。
表情は昼間と同じ、穏やかなものだった。
だが、その目だけが違っていた。
暗がりを探っている。
塀の下。
駐車場の隅。
ゴミ捨て場の陰。
何かいないか。
野良猫。
野良犬。
弱くて、逃げるしかできないもの。
カサッ。
足元を、小さな影が横切った。
タカヤの口元が、ゆっくり歪む。
「いた」
路地の奥へ逃げていく犬の後ろ姿が見えた。
痩せた野良犬だった。
タカヤは鞄を開ける。
中から取り出したのは、改造したエアガンだった。
カチリ。
迷わず構える。
パンッ!
乾いた音が夜道に響く。
犬が跳ねる。
「ほら、逃げろよ」
パンッ!
パンッ!
タカヤは笑いながら追いかけた。
犬は足を引きずりながら、細い路地へ逃げ込む。
そこは袋小路だった。
高い塀。
逃げ場はない。
「残念」
タカヤは鞄からカッターナイフを取り出した。
刃を押し出す。
チキチキチキ。
犬が振り向く。
その瞬間――
犬が飛びかかってきた。
「うわっ!」
反射的に振った刃が、犬の首を裂いた。
ドサッ!
犬は地面に落ちた。
血が広がる。
痙攣しながら、やがて動かなくなる。
タカヤは荒い息を吐いた。
それから、いつものようにスマホを取り出す。
「記念に一枚」
フラッシュが光った。
白い光の中に、犬の顔が浮かび上がる。
タカヤは、眉をひそめた。
犬の顔ではなかった。
人の顔だった。
皺だらけの男の顔。
恨めしそうに。
苦しそうに。
こちらを見ていた。
「げっ……気持ちわる」
タカヤは写真を削除すると、何事もなかったように歩き出した。
――
「ただいま」
「お帰り、タカヤ」
玄関では母が笑顔で迎えた。
父は居間で新聞を読んでいる。
「遅かったな」
「ちょっと残業で」
タカヤはいつもの顔で答えた。
夕飯を食べた。
風呂に入った。
母の作った味噌汁を褒めた。
父の話に相槌を打った。
何も変わらない。
いつも通りの、良い息子だった。
――
深夜二時。
タカヤは、ふと目を覚ました。
暗い。
部屋は静まり返っている。
だが、妙な臭いがした。
獣臭い。
濡れた犬のような臭いが、布団の中にこもっている。
『なんだ……?』
寝ぼけ眼を擦ろうとして、手を動かした。
その瞬間。
タカヤは固まった。
手が、毛深い。
いや。
手ではなかった。
前足だった。
『えっ!?』
声を出そうとした。
だが、喉から漏れたのは低い唸り声だった。
「ウゥゥ」
慌てて枕元のスマホに触れる。
画面が光る。
その青白い光が、布団の上を照らした。
毛むくじゃらの前足。
曲がった爪。
犬の胴体。
『うぎゃ――!』
叫んだつもりだった。
だが部屋に響いたのは、甲高い犬の鳴き声だった。
「キャィ――ン!」
ドタバタ!
タカヤはベッドから転げ落ち、暴れ回った。
椅子が倒れる。
机にぶつかる。
棚の上の物が落ちる。
「どうしたっ!?」
父の怒鳴り声がした。
扉が開く。
母も後ろから覗き込む。
パチン。
部屋の明かりが点いた。
そこにいたのは――
犬だった。
だが、顔だけが人間だった。
目。
鼻。
口。
それは、タカヤの顔だった。
「化け物――!」
父が叫んだ。
部屋の隅にあったラケットを掴み、犬へ振り上げる。
「出ていけ! 出ていけぇ!」
タカヤは逃げようとした。
『違う』
『俺だ』
『父さん』
『母さん』
『俺だよ』
そう言いたかった。
だが口から出るのは、惨めな鳴き声だけだった。
「ギャン! ギャン!」
ラケットが背中を叩く。
肩を打つ。
頭を掠める。
痛い。
やめて。
痛い。
タカヤは必死に逃げた。
バリン!
窓ガラスを破って、外へ飛び出す。
割れた破片が身体に刺さる。
それでも止まれなかった。
夜の闇へ。
路地の奥へ。
四本の足で逃げていく。
部屋には、荒い息を吐く父と、震える母だけが残された。
母は割れた窓を見つめていた。
唇が、かすかに動く。
「あの犬の顔……」
父が振り向く。
母は青ざめた顔で呟いた。
「タカヤだったわ」
――
一週間後。
電柱に貼られたタカヤ行方不明のビラ。
近所では、別の噂も広がっていた。
「この辺で人面犬が出たらしい……」
「顔が人間なんだって!」
「気味悪いよね」
路地裏のゴミ捨て場。
そこに一匹の人面犬がいた。
痩せ細った身体。
汚れた毛並み。
子供たちが石を投げる。
ゴッ。
頭に当たる。
「うわっ!」
「こっち見た!」
「キモ!」
笑いながら逃げていく子供たち。
人面犬は鳴いた。
『やめてくれ……』
だが――
「キャイン……」
それは、かつてタカヤが何度も聞いた鳴き声だった。
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