【産女】
古びた町営団地。
亀裂が走る白い壁。
表札の無い部屋。
「ま…… まま……」
親指を口に含み吸う幼児。
消え入りそうな声。
台所の横にある狭い玄関に横たわる。
汚れたコンクリートが、熱い身体を僅かに冷ましてくれる。
幼児の頬には、涙の跡。
泣き疲れて眠っていた。
母親が居なくなって、何日経ったのか幼児には分からない。
鍵が掛けられた玄関。
ノブに手が届かない幼児は、ただ、待つことしか出来ない。
ギュルギュル。
小さなお腹が鳴った。
うっすらと目を開ける。
暗い部屋に月明かりが差す。
痩せ細った身体で、這うように冷蔵庫に近付く。
低く唸る冷蔵庫。
冷蔵庫を開けようとするが……できなかった。
冷蔵庫の全ての扉にはガムテープが貼られている。
下側のガムテープには幼児の引っ掻いた跡が幾つも残る。
水を飲みたくても、蛇口が遠い。
照明のスイッチにも、幼い手は届かない。
バストイレも扉が開かないようにガムテープが貼られている。
幼児の汚物まみれのオムツは、誰も換えてくれない。
悪臭を漂わせながら小さな部屋を徘徊する。
大人の衣服やブランドバックが散らかった部屋で、食べ物を探す。
ティッシュを見つけたので、何枚か食べた。
口の中に貼り付く。
水分が奪われて、飲み込めない。
身体が熱く、意識が朦朧とする幼児。
ティッシュを吐いて倒れた。
「ま…… まま……」
闇に溶ける、か細い声。
命が消える直前。
血に染まったような赤い腰巻きと白い足が、幼児の目に入る。
白い手が幼児に伸びる。
優しく抱き上げられる幼児。
湿った甘い匂い。
口元に柔らかい乳房が触れる。
女の乳を飲む幼児。
腹を満たす。
満面の笑みを、濡れた髪の女に向ける。
ガチャ。
玄関が開いた。
「くっさ――」
鼻を摘み、厚化粧の派手な母親が帰ってきた。
酔っ払って、覚束ない足取り。
照明のスイッチに手を伸ばす。
カチカチ。
「あれ……?」
部屋は明るくならなかった。
何かの気配。
目を凝らす母親。
月明かりの部屋の中。
照らされる白い肌。
濡れた長い黒髪。
髪に隠れ、顔を伺い知ることはできない。
上半身裸の赤い腰巻きの女が、自分の子供に乳を与えていた。
「ちょっ! 私の子供に何してんの!?」
母親面して詰め寄る。
「抱けや…… 抱けや……」
赤い腰巻きの女が囁く。
その肩口。
濡れた黒髪の中から赤子が這い出てきた。
裸の赤子を掴み、母親に差し出す女。
「何言ってんの!?」
拒んだはずの母親。
だが、意思とは関係なく。
勝手に両手が、裸の赤子を迎え入れる。
胸元で抱く。
ズシ。
「お……重い」
母親の恐怖が滲む声。
両膝が震える。
尻餅を付く。
どんどん重くなる。
「た……助けて……」
懇願する母親。
だが、赤子を離すことができない。
仰向けに倒れる。
胸に乗る、無表情の赤子。
更に重くなる。
ビキッ。
胸骨が軋む。
肺が圧迫される。
「がはっ!」
息ができない。
血走る眼。
足をばたつかせ、踠く。
ボグ。
鈍い音。
母親の胸が潰れた。
遅れて、鼻や口から生暖かい血が溢れる。
赤い腰巻きの女は、裸の赤子を抱き上げた。
幼児と赤子を抱いたまま、月明かりの中へ溶けていく。
――翌朝。
胸が落ち窪んだ、母親の変死体が発見される。
だが――
その部屋に、幼児の姿は無かった。
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