たゆたう日常
大きなシャンデリアが暖色を灯すホテルのロビー。
鏡みたいに自分の姿が映る白い床を鳴らし、慣れない回転ドアを抜ける。
と、目に飛び込んできたのは整備された歩道を彩る赤やピンク、黄色に白の花。一瞬、あれも作り物かと思ったけれど、よくよく見てみると茎や葉の色がニセモノとは違う。
それに、微かだけど空気に混ざる香りが、本物だと揺れていた。
宝石の夜は、朝になっても色で溢れている。
そればかりか、先を歩く華奢な背中に続き歩いていると、左右に軒を連ねる店はどれも高級そうな趣きで、時折すれ違う人は皆、お上品な格好ばかり。
もしも露出の多い赤いドレスで歩いていたら、悪い意味で目立っていたと思う。
目に映るもの全てがスラムとは正反対。それはとても刺激的だけれど、こんなにも世界が違うものかと、愕然としている自分がいる。
想像以上だった。
それなのに、一瞬後ろを振り返って前を向いたカエラム曰く、ここは中心地から離れた場所で、人も店も少なく面白みに欠ける。等と軽々しく告げられ、驚きを通り越してもはや妬ましい。
中心部には大きな劇場があって、カジノがあって、店も人も、車ももっと多く賑やかなんだとか。もう想像もつかない。
「行ってみる?」
「行かない。一秒でも早くさよならがしたいの」
「そんなこと初めて言われた」
「そう。ならよかったわね」
嫌味を言っているのに、カエラムは何か冗談を聞いたように笑っている。
「それじゃあいつかあんたが劇場に立つ日がきたら教えてよ」
「………………」
何それ。嫌味のお返し? そんな日が来るわけないじゃない。
ありもしない未来に期待を膨らませるほど子どもじゃないし、そんな子ども騙しみたいな台詞。反吐が出る。
思わず鼻で笑ってしまう。そんな私にカエラムが足を止め、振り返った。
その向う側、五mほど先に見えているゲートでは、青い隊服姿の衛兵が二人、両手で銃を持ち、立っている。
「……見送りはいらない」
短くそう告げると手を差し出した。
もちろん、チケットを寄越せという意味だ。その宙に浮いた私の手を見て、カエラムは仕方ないといった様子で修道服の内側に手を突っ込み、ようやくチケットを取り出す。
そうして一枚、差しだそうとした次の瞬間。空いたもう片方の手で宙に浮いた手を捕まれ、チケットを握らされた。
まるで宝物を包み込むように、両手で。
「はい」
思いがけず優しい声音とその行動に何の意味があるのか分からず、すぐに払い除けることができなかった。
それよりも早く、カエラムが一歩下がる。
そしてふと気が付いたのだ。チケットと一緒に渡された、あの黄色の縫物に。
「何、これ」
怪訝に。視線を上げた。
「お守り」
「お守り?」
「人間は昔、お星様に願いをかけていたらしいよ。だからあんたの願いが叶うように、お守り」
「初めて聞いた」
「ときどき教会でも配ったりするんだ」
「そう。だけどいら──────」
「いらないは、もう聞かないよ?」
「………………」
あの清廉な微笑を浮かべ、小首を傾げるような仕草を見せる人物を睨む。もう少しで帰れるという所で、無駄に言い合って時間を長引かせる必要はない。
半ば諦めつつも、それでもあんたの言う通りにした訳じゃないと、最後に鼻を鳴らして金色の髪の横を通り越し、ゲートへ向かう。
と、不意に。
「またね、マリア」
澄んだ音で名を呼ばれるけれど、私は無視を決め込み、衛兵へチケットを見せゲートを通る。
『またね』等と、ふざけてる。どこまで人を馬鹿にしたら気がすむのか。
わざと背中を向けたまま昇降機に乗り、扉が閉まる。それからゆっくりと箱が下降し始めてから、大きな息を吐きだした。
本当に、昨夜はとんでもない日だった。
今思いだしても、宝石の夜には心が震える。カエラムの存在を除けば、だけれど。
この目で見られる日がくるとは思わなかった。
悔しいけれど。あの瞬間に見たもの全てを、私はきっと、生涯忘れないと思う。
下降し続けていた箱がゆったりと止まった。
そこでようやく振り返ると同時に扉が開く。
目の前には暗く、ガラクタで溢れた世界が広がっている。
これが、私の日常なんだ。




