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はじめての朝

 意識がぷっかりと浮上した。

 まだ世界は暗く、心地よい温もりと柔く包み込まれる肌触り、それから鼓膜を撫でる女性の優しい歌声。その全てがちょうどいい温度のなか、そのまま身を委ねそうになった次の瞬間。

 弾けた意識と共に瞼を開き上半身を起こす。

 と、真っさらな光が満ちる部屋で、昨夜と同じ。ソファーに腰をかけていた金髪が、修道服の膝の上で縫い物をしていた。


「おはよう、よく眠れたかい? お腹は空いてない?」


 カエラムは手元から視線を離すことなく、目覚めてすぐ聞くには最悪すぎるセリフを寄越してきた。

…………眠るつもりじゃなかった。夜のうちにここを離れるつもりでいたのに、いつの間に眠ってしまったんだろう。自分の失態に舌を打ち、絨毯の上に転がっていた靴を目で探し出し、すぐにベッドから下りて立ち上がる。


「早くチケットをちょうだい」


 起きたばかりで殊更低く、硬い声。質問には無視を決め込み催促すれば、金糸の持ち主は隙間からチラリと上目で私を見て、呆れたように浅く息を吐く。


「そう慌てるなよ、せっかちだな」

「………………」


 これ以上、無駄な言葉を交わす気はない。空色の瞳を睨みつけながら目で訴えるけれど、カエラムはあっさりとそれを流し、「そう言えば」と、口を開いた。


「昨夜は抱き枕がよかったから、僕も久しぶりによく眠れたんだ」


 …………は? だったら何。

 それでも睨むことを止めない私から視線を外し、ベッドの方。私の背後へ目配せして。


「お礼を用意した」


 にこりと微笑んでみせた。

 偽物とはいえスラムではお目にかかれない、真っ白な朝のなかで見るその笑みには何の不純物も感じられない。むしろ、初めてカエラムを見た時に感じたまま。清廉そのものなのだ。

 だから余計に、虫唾が走る。

 苛立ちと嫌悪。その両方から目を逸らし、背後を振り返る。

 すると、たった今、私が抜けだしてきたばかりで捲れたままの布団とは正反対、綺麗に整えられた隣には、真っ白なレースのロングワンピースが置いてあった。

 スカートの裾が花弁みたい。それがあまりにも上品で清楚なものだったから、一瞬、呆気に取られてしまった。


「…………何、これ」


 思わず溢れてしまった心の声。


「だからお礼だってば」

「お礼って……」


 再度カエラムを視界の中心に捉えると、何を考えているのかさっぱり分からない、いや、分かりたくもないそれは、相変わらず両手を動かし続けたまま。


「それに着替えたら送ってくよ」


 当然のようにまたありえないことを口にされ、「は?」腹の底から低い声が出た。


「勝手なことばかり言わないで。お礼なんていらない。私が欲しいのはチケットだけよ」


 苛立ちから荒くなる口調。それでもカエラムは知らん顔で視線すら寄越さず、唇にだけうっすら笑みを浮かべている。

 そうして食い下がる私を前に、あろうことかラジオから流れてくる曲に合わせて鼻歌を口ずさみはじめた。 

 もう何を言ったところで無駄。聞く耳を持たない。そう態度が言っている。


「──────っこの、クソガキ!」


 煮詰まった血液が腹の底から込み上げ頭の天辺を突き抜ける。思わず口を衝いた怒号と共にワンピースを引っ掴み、怒りのまま一歩を踏み出せば。


「洗面室は左側のドアだよ」


 益々、癪に触る言葉に舌を打つ。絨毯の上を踏みしめるたび、ヒールの踵がふわりと沈み込む。二、三歩足を進めた先。黄金色にうねったドアハンドルを握り、雑にドアを開けて中へと滑り込む。

 瞬間、眼前に広がる光景に、怒りが引っ込んでしまった。

 真っさらな光のなか、真っ白な空間には透明なガラスの向こうに猫足のバスタブが佇み、洗面室というには広く、何より清潔。どこもひび割れてはいないし、鏡も曇っていない。


「………………」


 本当に何もかもがスラムとは正反対の場所だ。

 ふと心に暗い影が差す。それを鼻で笑い、露出が多く薄い生地でできた赤いドレスを足元に落とす。

 さっきは怒りで気付かなかったけれど、こうして改めて手に持ってみれば、上等な生地でできたものだと私でも分かる。

 カエラムは【お礼】だと、よく分からないことを言っていた。だけどこんな清楚で上品な服が私に似合うわけがない。

 きっとまたからかい、笑い者にしたいんだろう。…………上等じゃない。

 意を決して袖を通し、鏡で確認することもなく出ていく。

 視界に映った金髪はずっと縫い物を続けており、テーブルの上には出来上がった黄色いものがいくつも散らばっていた。

 そのテーブルを挟み、カエラムの目の前で堂々と胸を張って立つ。

 空色の瞳はまだ伏せられたままだ。


「着替えたわよ。どう? 腹が痛くなるほど笑っていいわよ」


 カエラムがふっと笑う。両手が止まった。瞳がゆったりともったいぶって、私を見た。

 ──────ほら、思う存分、笑いなさい。


「どうして? よく似合ってるじゃん」

「………………」

「というか、あんたに似合うものを選んだんだから、当然だよね。それなら娼婦には見えない」

「………………」

「いい歌手にはいい衣装も必要さ」

「………………いい歌手」


 そんなこと、生まれて初めて言われた。いや、そうじゃなくて!

 想像していた反応とは真逆。思ってもいなかった言葉に呆然と立ち尽くすことしかできない。

 ただ目の前の金髪を凝視するだけの私に、カエラムは微笑む。


「それじゃあ送るよ」


 そう言って立ち上がり、華奢な背中を向ける。

 いったい何だって言うの。……調子が狂う。











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