最悪な夜
「それじゃあシャワーはどうする? バスタブに湯を張ってもいいけど」
「は?」
カエラムと名乗った青年が、部屋の明かりをつけながらおもむろに尋ねてきた言葉に耳を疑った。
この期に及んでまだからかうつもりなのか。それとも本気で言っているのか。
正直に言えばバスタブには惹かれるものがあった。スラムではほぼ見かけないし、あったとしてもそれはドラム缶という名の代物だ。
もちろん、私のツギハギだらけのアパートには両方存在しない。
けれどこんな状況で呑気にバスタブに浸かる人間がいるものか。
「いい。結構よ」
「ふーん。じゃあお腹は空いてない? ここの料理は結構いけるよ」
「………いらない」
バスタブの次は料理。いったい何を考えているのか分からない。スラムではお目にかかれない物ばかりを目の前に差しだされ、そう簡単に飛びつくような女だと思われているなら癪に障る。
何より、カエラムを信用できない。しちゃいけない。
虫を殺すように人を殺せる、ろくでもない奴なのだから。
背中を向けることで物理的に視界から消し去る。すると、何がおかしいのか小さく笑う気配がしたかと思えば、ガラスに反射するその姿にぎょっとし、思わず振り返ってしまった。
「な、何してるの!?」
あろうことかカエラムは、ケープに修道服といった順で頭から脱ぎ取ると、白いシャツに黒いスラックスというラフな格好で、抜け殻はソファーの背もたれへ無造作にかけている。
「風呂も食事もいらないなら後は寝るだけじゃん」
「寝るって、」
頭が全く追いつかないでいる。言葉は理解できるのに理解できない。そんな矛盾した感覚に突っ立っているだけの抜けた私の肩を抱き、「ここのベットは気持ちいいよ」等と口にしながら、その真っ白なお腹の中へ引きずり込まれていく。
「ちょっと! やめて! 一人で寝なさいよ!」
体を捩り、叩き、押し退け、できうる限りの抵抗をした。こっちはそれが精一杯。それなのに華奢な体はびくともしない。むしろ抵抗すればするほどクスクスと笑い続けている。
そうして難を逃れたのは靴だけだった。
「こらこら、大人しくして。何もしないよ」
まるで小さな子どもに言い聞かせるように囁きながら、カエラムが後ろから抱きついてくる。確かにベットの中は想像以上で、体が沈む感覚はふわふわと心地よく、肌触りがよかった。
それにとてもいい匂いまでする。
こんな状況でなければ間違いなく、人生でいちばん幸せな瞬間になったと思う。だけど現実は、人生でいちばん最悪な夜だ。
ウエスト周りをホールドしてくる手を解こうと試みる。が、反応があるのは後ろでクスクスと笑う気配と、
「子守唄が必要?」
ふざけた台詞だけだ。
「いいえ。必要なのはチケットだけよ」
「それは残念。もうソファーの上だよ」
ソファーの上。その言葉に釣られるよう背もたれにかけられた修道服へ目をやった。その一瞬だった。他のことに気を取られている隙に、カエラムは目敏く、私を自分の方へ寄せると、隙間もないくらいに互いの体がぴたりと嵌ってしまった。
そうなれば最後。もう身動きすらできない。
「いい加減諦めて、抱き枕になってよ」
寝言のような緩んだ声音。
「誰が!」
あんたの抱き枕になるもんか。と、反論が続くよりも早く。信じられないことにうなじの辺りから静かな寝息が掠めてきたのだ。
「嘘でしょう………」
どれだけ寝つきがいいの。いっそ感心してしまう。
だけどこれはチャンスかもしれない。寝返りを打つなり、腕が離れた瞬間を狙えば抜け出せるタイミングはきっとあるはず。
そうしたらさっさとチケットを貰って帰る。
昇降機の場所は誰かに聞けばいい。宝石の夜は眠らないんだから。
その瞬間を、ただただ待っていた。
………おかしな話だと思う。
スラムでの生活は嫌な思い出の方が多く、幸せより恨みの方が大きい。確かにママ先生やマスター、大切にしたい人はいるけれど、掃き溜めみたいなあの場所に私を捨てたママやパパを呪い、いつか抜けだしてプロの歌手になりたい。
誰にも言えない秘密をずっと隠してきた。
天国にいちばん近い場所は。宝石の夜は、私の夢を叶えたい憧れの場所。もちろんスラムで一生を終えるんだろうと、現実の私は分かっている。その一方で、わずかな希望に縋りたいもう一人の私がいる。
そんな私からすれば、今の状況は色んな意味で夢みたいだった。
状況がこうでなければ本当に最高の夢だった。
それが今は一刻も早く家に帰りたいなんて。
そんな日がくるとは思わなかった。




