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星空

「…………分かった」


 瞳を見つめ返して頷くと、小柄な体は素直に後ろへ下がった。

 さっきは怒りで踏み潰してしまった絨毯の上を、今度は意を決して一歩ずつ歩いていく。

 そうしてベッドの前。宝石の夜をバックに立ったとき、不意に部屋の明かりが消えた。

 ドアの方へ視線をやる。

 と、青年はすぐ側の壁に背中を預けて立っていた。

 その視線は、窓の外。


「星空みたいだよな」

「え?」


 一人言のようにぽつり、と。呟かれた言葉。

 わたしが絵本で見た星空は、色とりどりの点が散らばったものだったけど、彼が知っている星空は、こんなにも明るい。


「本物は見たことないけど」


 凝視し続けてしまった先で、瞳が落ちた。

 テーブルに散らばった縫い物が薄らと光を纏っている。

 音はない。ただ光が浮かぶ部屋のなか。わたしはいちどだけ深呼吸をした。

 …………緊張してしまう。

 いつもは男たちを悦ばすためだけに歌っている歌は、きっと通用しない。


「………………」


 瞼を閉じ、息を吸った。

 そして震える瞼をカッと開き、声を前に放つ!



 くたばってよ お星さま

 その生意気な瞳が 気に入らないのよ

 くたばってよ お星さま

 そして 流れ星を 見せて



 バーのステージとはまったく違う。

 激しくがなり、息が続くまでめちゃくちゃな声をあげた。

 最後の音を切り、酸素を求めるわたしの乱れた息づかいだけが星空のなかを走る。

 青年は面食らったような表情をしていた。

 失敗、したかもしれない。

 一抹の不安が胸をギュッと苦しくさせた、そのとき。


「──────っ」


 青年は、吹きだした。


「あはははははっ!」


 そして次の瞬間には体を前に折り曲げ、お腹を抱えて笑いはじめた。

 その声は少年のようにあどけない。

 そんな様子に戸惑いさえ覚え、呆然と突っ立ったまま見つめていると。

 わたしの瞳のなかでその人は、息を整え姿勢を戻し、目元を人差し指の側面で拭う。


「ここじゃ絶対に聞けない歌だ」


 思いだしたようにまた軽く笑い、


「ごめん。僕が間違えてた。認めるよ、あんたが最高の歌い手だって」


 つい、目の前にいるヤツが人殺しだということを、教会の人間だということを、忘れてしまいそうになった。

 それくらいふわっと柔く笑うから──────

 目を逸らしてしまった。


「片道分の歌は聞かせてもらったし。ちゃんと明日の朝には帰してやるよ」


 不覚にも胸のなかがざわついていた。だから鼓膜に届いたその言葉を理解するまで、ほんの少し時間がかかった。

 え? 今なんて言った?


「明日? 明日帰すって言った?」

「そう言った」


 信じられない。胸のなかを乱していたものは、その瞬間にはまた嫌悪に変わっていた。


「なによそれ、この嘘つき!」

「ウソは言ってない。片道分を稼いで帰りなよ、とは言ったけど、いつとは約束してない」

「そんなの! 屁理屈じゃない」


 これ以上付き合っていられない。

 いつの間に拾っていたのか、青年の手に握られている、命に等しい物を目がけて歩を進め、奪い取ろうと試みた。

 が、右へ左へ、下へ上へと、指先が届く寸前のところで素早くかわされてしまい、なかなか叶わない。

 こっちは必死だというのに、相手は遊んでいるかのようにクスクスと笑っているのもやっぱり癪に障る。


「あ!」


 思わず声をあげてしまったのは、チケットをあの謎の修道服の内側へ隠されてしまったからだ。

 そのとき一瞬、ケープの下に見えた銃。

 右手を宙に浮かせたまま動きを止めたわたしを正面から見据える瞳には、光が当たって潤んで見える。


「あんた、名前は?」


 なんでもないことのように問われ、わたしは手を下げる。


「言いたくない」


 そうして睨んでやるけど、「へぇ?」目の前の口元は弧を描くだけ。


「そんなに僕と一緒にいたいんだ?」


 からかっているんだろう。絶対に面白がっている。

 絶対にその手には乗ってやるもんですか。

 と、本当はそう言ってやりたいけれど、わたしの前でニコニコと笑うヤツなら、わたしが困ると知っていて、明日になっても帰してくれないかもしれない。

 腹の底から深い溜め息が溢れた。


「マリア」


 吐き捨てるように言う。

 聞き取れなければいいと思いながら、低い声で。


「…………マリア?」


 だけどしっかり届いてしまったみたいで残念だ。また息を吐く。

 青年は名前を聞いておきながら、何か考えているような面持ちで数秒黙っていた。

 どうせおかしな名前だとでも思っているんだろう。

 ふん、と。鼻を鳴らして背中を向けた。

 そのとき、思いがけず真面目な声が、


「いい名前じゃん」


 ぽつりと当たり、後ろを振り返る。

 …………分からない。いや、分かりたくはない。

 だけどスラムで見た青年と、今目の前にいる人。なんだかチグハグな印象に戸惑いさえ覚えてしまう。


「僕はカエラム」


 よろしく。と。

 笑みを振り払うよう、わたしはまた鼻を鳴らす。


「ああそう。だけど私たち、もう会うことはないと思う。きっと明日には名前も忘れていると思うわ」

「……冷たいなぁ」


 まるで残念だと言わんばかりに、小さく息を吐いた。









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