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「お前の好きにすればいい。抵抗はしない」


 視線は下がったまま。マスターが言った。

 なんでもないことのように。いつもとなにも変わらない様子で。

 抵抗されたいわけじゃない。だけど、物分りのいいその態度が、本当に癪に障るのだ。

 さっきまでは冷静を保っていられたのに、感情の波が押しては引いてを繰り返す。

 ただ隠れていただけの怒りがまた溢れてくる。

 と、不意に、背中に軽く置かれた手の平の感触。

 はっと我に返る。それから振り返ろうとして体を半分向ければ、ルカが後ろからゆっくり進みでて、私の隣に並んだ。


「あんたたちがスラムにこだわる理由が分かった」


 真っ直ぐなその音が、ここでは唯一の救いのような響きに聞こえる。


「スラムの人間が消えたところで、誰も気にしないし、スラムの人間の言うことを、誰も本気にしたりしない。ましてや教会が人体実験をしてるなんて話を、詰所の連中が信じるわけない」


 最後までルカの言葉を聞いていたマスターが、ふっと唇に微笑を浮かべた。

 まるで、正解だ。と、言わんばかりに。

 頭に血がのぼっていたから、そんな簡単なことも忘れていた。

 ルカの言う通りだ。

 つい詰所に突きだしてやると叫んだけれど、私の話を誰が信じてくれるというのか。

 たとえマスターが自白したところで、気が触れたと思われて終わりだ。

 ルカが証言してくれたとしても、物的証拠がなにもない。

 ニクスたちは認めているけれど、それは言葉だけで、シラを切られればお終いだ。

 証拠があっても、ないようなものなのだ。


「……だったら、消えて」


 頭のなかは真っ白だった。

 それでも自然と動いた唇が、勝手にそう発していた。


「今すぐ。ここからでていって」

「…………」


 スラムをでて、次に行くところは一つしかない。上だ。きっとマスターのことだから、上に行く金などすでに持っているような気がする。

 今はなにもできなくても、いつか必ず罪を償わせてやる。

 しばらく黙っていたマスターが、瞼を持ち上げ、私を見た。


「分かった。お前が望むとおりにしよう」


 私が望むとおり?

 その言い方がいちいち癪に障る。

 きゅっと唇を噛み締めた。

 今さら抵抗しても無駄だから?

 だからそんな、まるで後悔でもしているみたいなその態度で、自分を繕っているのか。

 確かにその心の内は分からない。だけど、自分のためにスラムの人たちや私を売れるような人間が、後悔や反省なんかするはずがない。

 そんな心があるなら最初からしないだろう。

 それなのに、だ。

 脳裏には、ときどきコーヒーの粉を分けにきてくれたマスターの顔が。

『店で歌わないか』と、私に手を差し伸べてくれたマスターの声が、ずっとちらちらと過ぎってくる。

 だからもっときつく唇を噛んだ。

 そうしていないと涙が溢れそうだったから。

 だけどなんとかそれを堪える。

 瞬きをすれば落ちてきそうだから、目に力を入れ、私は唇を開く。


「もう、顔も見たくない」


 震える声でそう溢した私を、マスターはただじっと見ていて。そして小さく「分かった」と、それだけ。

 店のなかから男たちが騒ぐ声や、声が、耳鳴りのように鳴り渡っている。

 相変わらず不協和音のそれは、監視の目がないせいか次第に剣呑な雰囲気になっていく。

 張り詰めた空気が壊れるのは一瞬。

 すぐに一人が怒声をあげると、大勢の怒声がそれを掻き消すように、響き渡る。


「もう行って」


 私は短く吐き捨てて、背中を見せた。

 あのまま放っておいたらピアノやステージが破壊されてしまいそうだ。

……もうそんな心配をする必要もないのに。

 数秒、間があった。

 土を踏む音が小さく聞こえ、裏口が開く。

 瞬間、うわっと押し寄せる騒音が背中ごと私を飲み込む。

 でもすぐに閉じたドアの音。それが声と声の隙間を縫って、確かに聞こえた。

 吐きだされた私は、きつく噛んだ唇を緩め、息を吐きだす。

 ようやく両目を閉じれば、ぽろぽろと左右の瞳から涙が溢れ落ちる。

 背中に添えられた手が、ゆっくりと労るように、摩《さす》ってくれる。

 それがあんまりにも優しくて温かいから。隣へ顔を向ければ。


「マリアはよく頑張ったよ。今すぐに世界は変えられないけど、あんたならきっとあの男を救ってやれるさ」

「……本当に?」


 ルカがちらりと私をわずかに見上げ、頷いた。


「本当」


 私の瞳を捕まえていた視線が、ふっと柔くなる。

 それがとても愛おしくて。

 今度は私がルカの頭をそっと撫でる。

 金糸は、見た目通り柔らかい。

 その感触を堪能していたら、柔くなっていた視線が途端、恨めしそうなものへと変わるのだ。


「まさか、可愛いの次は子ども扱い? 僕のことを舐めすぎじゃない?」


 拗ねたような声音さえ愛おしくて、抱き締めたくなる気持ちをなんとか堪えた。


「違う。……愛おしくて」


 素直な気持ちを溢せば、面食らった瞳が見開いたあと、ふいっとそっぽを向き、正面を向く。

「今のはずるいよ」やっぱり拗ねた声音が一人言のように呟くのを見て、体からふと力が抜けていくのが分かった。

 今の今まで打ちのめされていた心が。

 決して混ざりあうことのない感情で、ぐちゃぐちゃになっていた心が。

 彼の存在や言葉一つ一つで救われていく。

 ルカに言われたら、本当になんでもできそうな気がするのだ。


「ありがとう、ルカ。あんたが一緒に来てくれて助かったわ」


 正面を見ていた視線が、ちらりと横目で私を見て。

 ふんと鼻を鳴らした。


「言っただろ? 僕はいつでもマリアの味方だって」


 当たり前だというように、少し生意気な表情はだけど、きっと世界でいちばん優しくて頼もしい言葉だ。

 それが心のいちばん奥にじんわりと染みていく。

 ついでに目にも染みる。

 瞬きすれば次から次へと涙が落ちてくる。

 悲しいからじゃない。


「ふふ」


 自然と笑みが溢れた。











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