残酷
いつも寡黙なマスターらしい。
それとも話す気がないのか。
黙り込んだきり。その視線はずっと地面を見つめている。
私たちの間には、客の男たちが騒ぐ声しかない。
二、三歩、足を踏み込めばすぐに手が届く距離だ。
だけどそのたった数歩が、今はとてつもなく遠く感じる。絶対に越えられない境界線みたいに。
いよいよ私のほうが痺れを切らしかけたとき。
マスターが目を閉じ、観念したように小さく息を吐きだした。
「理由など何もない」
一言。たったそれだけを溢す。
「なに……?」
返した声が震えていた。
言葉は理解できる。
でも心がそれを拒否しているから、うまく受け止められない。
音として鼓膜に当たるだけ。
「理由などない」
もう一度、繰り返された言葉。ぎゅっと両手を握り締める。
「お前が期待しているような、大層な理由は何もない。ここで生きていくためにやっていた。ただそれだけのことだ」
「なに、それ」
なんとなく、予想はしていたのだ。
だけど本当に、それだけの理由だなんて。
一度、口を開けば、マスターはつらつらと語りはじめる。
「元々、店を開いたのもそのためだ。金は全てあちらが持ってくれる。俺はただ店に立っていればそれでいい。酒場には色んな噂話がやってくるからな。思った通り、ここは都合がよかった」
は?
と、唇から溢れたと思った自分の声は、形にならず。
私は瞬きも忘れて、目の前に立っている人を睨み続けて。
視線を彷徨わせてしまう。
今、なんて言ったの?
この店もそのために開いた?
開いた口が塞がらない。
頭のなかがごちゃごちゃ。
疑問が絡まりあう。
「じ、じゃあ、私を拾ったのは? あれはなんだったの?」
「あれは、ただお前の歌が気に入ったからだ。だが今思えば、お前を拾ったことで、自分の罪が少しだけ薄まるような気がしたんだ」
……信じられない。
それは本当?
私の歌を気に入ったって言うのは建前で、自分のために私を拾ったんじゃないの?
自分の罪を少しでも軽く見せかけたいだけに、利用したんじゃないの?
唇を噛み締めた。
そうしていなければ、マスターの語ることを遮って、罵ってしまいそうだったから。
聞きたいことはまだあるのだ。
「俺は昔、上からやって来る連中の用心棒をやって、日銭を稼いでいた。そうしたらある日、一人の男から話を持ちかけられた。実現したい夢のために、協力してくれないか、と」
「……男?」
ほとんど唇を動かさず、顔を歪める。
マスターは数秒、じっと私の顔を見たあとで、おもむろに口を開いた。
「クリス・ヴァレンタイン」
静かな口調がその名を口にしたとき、私の後ろにいたルカが、はっと息を飲む気配がした。
振り返ると視線がかち合う。
「父様だ」
彼の言葉を聞き、「父様?」マスターがそう口にして。
顔を正面へ戻せば目の前の瞳はルカを見ていた。
「そうか。……なるほどな」
ずっと長く一緒にいて、マスターが笑ったところなんて、今まで見たこともなかった。
それが今日はじめて、唇にふっと笑みを浮かべ、「皮肉なものだな」と、呟く。
本当に、そう思う。
きっと今日のことは最低な思い出になる。
さっさと忘れたいくらい、最低だ。
それなのに、はじめて笑った顔を見せられたら、そう簡単に消えてはくれないだろう。
たぶんきっと、これから何度も思いだしてしまう。
笑えば案外、優しい顔なんだって。
目尻にできた皺ごと、思いだしてしまう。
「それじゃあマスターは、彼の父親に雇われてこの店を開いたってわけ? 私と出会う前から教会に協力していたってこと?」
半ば呆然としながら、それでも状況を一度、整理しようと努めた。
声にださなければ頭に入ってこない。
マスターはただ、小さく頷いただけだった。
「ルーシーは……?」
頭のなかに浮かぶよりも先に、唇からその名前が溢れ落ちた。
マスターは、たったそれだけの音を拾い、私がなにを言いたいのか理解したようだ。
頭を緩く左右に振ったのだから。
「あの子は関係ない。主人に金を渡してはいるが、娼館の連中は、あの中身を知らない」
娼館の人たちまで利用されていたという事実に、どこまで身勝手なの、と。
腹がたちすぎて涙が込み上げてくる。
もしもあの子が真実に気づいてしまったら?
自分でも知らないうちに、教会の人体実験に加担していることを知ってしまったら?
純粋なルーシーのことだ。
きっと自分を責めて、正気ではいられないだろう。
怒りなんてものはもう、とっくに限界を迎えていた。
そのせいかむしろ、冷静だ。
「私を売るとき、どんな気持ちだった?」
皮肉のつもりで聞いてやったのだ。
ふんと鼻を鳴らし、半分、笑って聞いてやった。
マスターは無表情のまま。
暗がりのなかだからか、瞳は死んだように静かだ。
「迷ったさ」
声音はなにも変わらない。
さっき、語っていたものと同じ響き。
「だが、目印を見つけてしまったら最後、気付けば報告をしていた。毎晩、店に立つのと変わらない。罪悪感など、もうとっくに死んでいる」
つまり私を売るときも抵抗はなかったってこと?
少しだけ迷ったけど、気づけば報告していたって?
それくらい、マスターにとっては当たり前のことだったんだ。
スラムの人たちを裏切る行為は。
手の平にはもう、力が入っていなかった。
だらんと垂れている。
もうこの人になにを言っても無駄だ。
それだけは分かる。
私がずっと黙っていたからか。
今度はマスターが、「お前は」と、口火を切った。
「お前はどうしてここに? てっきりもう……」
そこで途切れたあとの言葉は簡単に想像できた。
「死んだと思ってた?」
「…………」
目の前の男を睨みつける。一歩、右足が前にでた。
「残念だったわね。私は標的じゃなかったの。あんたの勘違いで、私は標的にされたのよ!」
声を荒らげれば、一瞬、マスターが目を見開く。
「あんたたちが目印にしてるあれはね、私が彼から直接もらったお守りだった。スラムで配られてるデットカードなんかじゃない」
「何だと……?」
信じられないと言った音だった。
視線がふとルカのほうへ投げられる。
「本当さ。マリアが持っていた物は、僕が縫って渡したんだ」
瞬きを忘れていた目が伏せられた。
ゆっくりと息を吐いたマスターが、「……そうか」などと、こともなげに。
その一言は、冷静を装っていた私の癇を殴り飛ばした。
「そうか? そうかじゃないわよ! 私がどんな目にあったと思ってるの? あそこにいる人たちがどんな目にあってると……絶対に許さないから!」
「……ああ」
やっぱり、この人になにを言っても無駄。
分かっていたはずなのに、どこかでまだ期待を捨てられない自分がいる。
私がどれだけ叫んだところで、マスターは地面を見つめたまま静かに立っているだけなのに。
「あんたのことは、詰所に突きだしてやるから! 罪を償って!」
きんとした私の声が鳴り渡る。
マスターはもうなにも言わない。
本当は殺してやりたいくらい憎らしい。
私やスラムの人たちが味わった分だけ、同じ苦しみを与えてやりたい。
だけど、それをしたら私もこいつらと同じに成り下がる。
それだけは絶対に嫌だ。




