懐かしい思い出
「だけどその前に、マリアが会いたいって言ってた人のところへ行こうか」
ルカが怪我一つなく、無事だったことに安堵したのも束の間。
解けかけていた心がまた硬くなる。
「……うん」
覚悟は決めてきたはずなのに。
いざ対面するとなると緊張してきた。
顔を見たからといって、なんて言葉を交わそうか。
「久しぶり」なんて、そんな呑気な言葉をかけられそうにもないし、だからと言って、いきなり人体実験のことを持ちだせるかと言われれば、正直、分からない。
「マリア」
暗がりのなか。
ルカの瞳を見つめていたようで、その実、焦点はまったく合っていなかった視線。
ぴんと張り詰めかけた糸に触れた音は、どこまでも優しかった。
それに釣られて焦点を中央に戻す。
と、冷たい手がおもむろに私の右手をとり、上から両手でそっと挟む。
そして自身の口元まで引き寄せて。
「大丈夫。僕がいる」
まるで呪いのようにそう溢したあと、私の指先に軽いキスを落とす。
……不思議だな。
彼にそう言われると、本当に大丈夫な気がする。
どんなことも上手くいく。
そんな勇気が湧いてくるんだもの。
私はふっと息を洩らして笑った。
そうしたら、上目でこちらを見上げてくるその口元には、してやったりと、笑みが浮かんでいた。
やられた。
なんだか悔しい気分。
だけど、それも悪くないと、素直にそう思える。
壊れ物でも扱うみたいに、両手で挟まれていた自分の手を。祝福を受けた右手を引き抜き、今度は私がルカの手をとる。
「こっち。店はすぐそこだから」
そう言いながら、その手を引いて歩きだす。
ザッ、ザッ、と。
土を踏み鳴らす、二人分の音が鳴り渡る。
前へ進むたび、それでも少しだけ緊張してしまう心臓が、どくどくと小刻みに震えるのと同じ速度で、足もだんだん速まっていく。
建物と建前の間から赤いネオンが洩れ、地面を染めている。
それを踏み、懐かしい気持ちになっている自分が、どこか不思議で新鮮だった。
そして不意に、それは視界に飛び込む。
見慣れた店の形──────三角屋根が見えて。
近づくほど男たちのバカ笑いが大きくなっていく。
ぎゅっとルカの手を握る。
そうしたらさらにぎゅっと強く握り返してくれる。
隣を見て、しっかりと頷く。
そして手を離し、二、三歩踏み込む。
毎日、毎日、くぐり抜けていた、薄い木造でできたドアを開けた。
瞬間、声が。
男たちの騒ぐ声がぶわっと全身を叩き、煙草や酒の匂いが鼻腔を突く。
その衝撃に一瞬、目を閉じるけど、すぐにカウタンーを覗くよう、身を乗りだせば。
ぼんやりした白い明かりのなかで、グラスを磨いているマスターの横顔を見つけた。
きゅっと引き絞るような痛みが、胸の奥を一度、刺す。
それを見逃して、「マスター」声をかける。
決して大きな音ではなかった。
それでも私の声は、男たちの笑い声の間を縫い、彼に届いたようだった。
ふとこちらを向いた顔は、変わらず仏頂面。
でも、私を見た一瞬、驚いたように目を見開く。
静かにグラスをカウンターへ置き、客の様子を見たあと、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
「マリア、お前……」
そこで言葉を止め、「心配していたんだぞ。急にいなくなって」と、低い声は特別、変わった様子もなく、そう言い直す。
ふっと、その視線が私の後ろへ逸れた。
「…………」
感情を表にださないマスターの、心の内を測ることは難しい。
だけど、纏う空気が変わった。
なにかを察したような、それに。
マスターは黙ったまま私を見た。
「外で話そう」
たった一言、静かにそう言った。
もちろん、店のなかで騒ぎを起こそうとは考えていない。
だから頷き、私が下がると、シャツのボタンを一つ開けているマスターが、店のなかから外へでてきた。
私と正面から向き合う彼は、数秒じっと見つめたあとで、口を開く。
「元気そうでよかった。どこのお嬢さんかと思ったぞ」
ワンピースを着た私を見つめ続け、ふと視線を地面へと落とす。
やっぱり、「久しぶり」なんて、そんな呑気な言葉はでてこない。
「マスター」
静かに呼べば、視線が戻ってくる。
「本当に、心配してた?」
「当たり前だろう」
「嘘つき」
きっぱりと、そう言い放つ。
マスターはまた黙ってしまった。
「マスターなんでしょう? 私やスラムの人たちを、教会に売ってるのは」
「…………」
「もうぜんぶ知ってるの。だから正直に話して。どうしてそんなことをしているのか」
「…………」
「話して!」
声を荒らげた私のものが、一瞬、男たちの笑い声を搔き消した。
……だめだ。
もっと冷静に話せるかと思ったのに。
顔を見たら、なんとも言えない複雑な感情が顔をだしてくる。
裏切られたという悲しい気持ちと怒り。
それでもなにか理由があるんじゃないかと信じたい気持ち。
あのとき、薬を投与され続けた日々が頭を過ぎるたび、体が震え、泣きだしたい気持ちに襲われる。
だけどその一方で、そのおぞましい記憶もぜんぶひっくるめて、ルカと今、こうしていられる事実がある。
だからといってすべてを許せるわけではない。
そんな、ぐちゃぐちゃな気持ちが込み上げてくる。




