動きだす針
部屋のなかにはラジオが流れていた。
マリアの歌だ。
ガラス一面の向こう側には柔らかな白い明かりが貼りつき、部屋のなかを色づけている。
ラブソングとは違う、はじめて聞く歌。
でも、囁くような優しい歌声にぼんやりと鼓膜を撫でられながら、私はソファーに座り、膝のうえで広げた新聞を眺めていた。
私が一人でも退屈しないように、と。
ルカが新聞や雑誌を大量に置いていったのだ。
やっぱり彼は、世話好きなのかもしれない。
それに、忙しそうだ。
あまり詳しくは聞けなかったし、ルカも話そうとはしないけれど、朝は祈りを捧げに教会へ行かなければいけないことは教えてくれた。
昨夜、遅くに戻ってきたばかりだというのに。
今日もすぐに帰ってくると言ってでかけていった彼は、昼を過ぎてもまだ帰ってこない。
人体実験のことを知りながらも、すぐに教会を離れるのは難しいみたいだった。
特に内部を探るためには、使徒でいたほうが都合がいい。
それから、とても残酷なことだけれど。
使徒たちに始末させるため、街へ捨てられた人たちは、もう手の施しようがないくらい壊れてしまっている。
彼、もしくは彼女たちを救う手立ては一つだけ。
その苦しみから一秒でも早く解放すること。
他の人間を無差別に襲ってしまう前に。
到底、受け入れ難い身勝手な理由だ。
それでも、それが現実なのだとルカが話していた。
彼が一人でその現実と向き合い、危険なことをしている間、私は安全なところで何もせず守られているばかり。
その現状が歯がゆくてしかたがない。
せめて自分の食い扶持くらい稼げる方法はないか。
ずっと頭の片隅でそれを考えながら新聞を捲り、ふと目に入った文字。
右端に載った、『カペラの歌姫、舞台を去る』と、大きく書かれた見出しに目を留める。
記事にはこう書かれていた。
あの伝説の歌手。
マリア・カラスの生まれ変わりかと期待されたカペラの新星は、観客たちの心を奪ったまま舞台から姿を消した。
しかし、たった二日という短すぎる公演は、確かに新たな伝説を生んだ。
伝説の歌手と同じ名前を持つ彼女、マリアは観客たちに宣言したのだ。
また必ず舞台へ戻ってくると。
その瞬間、彼女の歌や言葉が観客たちの心へ刻まれたことは間違いないだろう。
「……これ、私?」
他人事のような声が洩れた。
まるで自分のことだとは思えない。
だけど、舞台を降りたマリアは私しかいないし。
まさか記事になっているなんて。
そういえばニクスが言っていた気がする。
はじめて舞台に立った次の日、私のことが新聞に載っていたと。
「…………」
勝手にカペラを去ったから。
規則違反だと言われたけれど、あれからニクスが何かを言ってくることも、ここへ来ることも、今のところはない。
契約書には他の劇場や路上での歌唱を禁じると書いてあった。
でも、私はもう劇場を去ったわけだし。
こうして記事にもなっているくらいだ。
また路上で歌うのはありかもしれない。
腕を組み、真剣に考えはじめたそのとき。
部屋のドアが開いた。
ソファーの上で振り返ると同時。
金糸が見え、続けて両手にたくさんの紙袋を下げて入ってくる、一層、小柄に映る体。
「ただいま」
「おかえりなさい。どうしたの、それ」
立ち上がって呆然と見つめる私をよそに、「ああ、これ?」なんでもないような顔が紙袋を見下ろす。
「全部マリアのだよ」
「えっ?」
「さすがにその服だけじゃあね」
「そんな! 昨日だってあれから色々と買ってもらったのに!」
この部屋で生活していくために、と。
歯ブラシから下着に至るまで。
もう充分すぎるほど整えてもらったばかり。
でも、ルカは軽く笑うだけ。
「いいんだよ。僕が好きで勝手にしてることだから、気にしないで。それよりもさ──────」
ソファーの上に両手いっぱいの紙袋を置き、ルカが私を見た。
「今日の夜、スラムに行ってくるよ」




