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選びとる明日

「このまま部屋へ戻るのはもったいない」


 店をでたあと、ルカがそう言った。

 そうして手を引かれるまま辿り着いた場所は、路地を抜けた先。

 開けた場所には中央に、見たことのない──────空に向かって水が跳ねているオブジェクトがある。

 周囲にはカラフルな屋根をつけた屋台が数店あって、ちらほらと客が並んでいる。

 親子連れや恋人たちが、真っ白なベンチに座ってお喋りをしていたり、買ったものを食べたり飲んだり。

 とても穏やかな時間が流れている場所だった。

 ちょうど、私たちとすれ違う形で去っていた恋人たちがいた。

 ぽつんと佇むベンチに並んで座ると、「疲れてない? 喉は渇いてない? お腹は?」

 まるで小さな子どもを相手にするかのよう、投げかけられた言葉に、私は吹きだしてしまった。


「あんたって、意外と世話焼きなの?」


 きょとんとした隙だらけの表情を横目に見遣り、また笑ってしまう。おかしかったんじゃない。

 愛おしくて、だ。


「はじめて会った夜も、私にお腹が空いてないか尋ねてきたわよね」

「そうだっけ」


 なんだか気恥しそうに正面を向くその横顔を見つめ、私の頬は自然と緩みっぱなし。


「ありがとう。でも大丈夫」

「そう」

「服も。ほんとにありがとう」

「どういたしまして」


 擽ったそうにふふっと笑う様子を見ているだけで、心が満たされていく。

 今、とても幸せだ。と、心の奥からそう思える。

 正面を向いた。

 目の前には得体の知れないオブジェクトがある。

 まったく尽きる気配がない水は、いったいどこから湧いてくるんだろう。

 飲めそうなくらい透き通っているし、目にも涼やかだ。

 それでも、綺麗よりもったいない。

 と、真っ先にそう思ってしまう。


「あのさ、マリア」


 数秒、言葉もなく互いに正面を向いたままだった。

 不意に改まったような声音に、顔を左へと向ける。

 空色は動かない。


「聞いてほしいことがある」

「なに?」


 瞳が先に動き、ゆっくりとこちらを向いたその色は、ひどく真剣。

 私を見据えたルカが、口を開いた。


「僕は、兄さんを救いたい」

「…………」

「僕や兄さんの罪は、決して許されるものじゃないけど……でも、きっと待ってると思うんだ」

「待ってる?」

「父様や母様の呪いから、救いだしてくれる人を」


 ルカの言葉に、ふとあの夜のニクスを思いだす。

 マリアのレコードを聞きながら、一人で酒を飲んでいた彼は、「置いていかれるのはもう嫌だ」と。

 そう言っていた。

 いつもは完璧な鎧を身につけた彼の赤い瞳には、孤独が潜んでいる。

 その姿を、思いだしていた。


「兄さんはなんでも一人でできるような顔をして、本当はとても不器用で、優しい人だから。父様のことを見捨てられないんだと思う」


 ルカが深く息を吐いた。


「だから、その呪いを断ち切ろうと思うんだ」


 覚悟をもった響きが、きっぱりと言い切った。


「僕がマリアに救われたように、今度は僕が兄さんを救いたい」

「…………」


 確かに言葉は、覚悟を秘めていた。

 だけど空色の瞳は不安げに揺れている。

 たぶん、ルカ自身も迷っているのかもしれない。

 彼は自分のニクスの罪。と、そう言った。

 人体実験という人の道を外れた自分たちが、救われてもいいのかと。迷っているのかもしれない。


「確かに。許されることじゃないわね」


 目の前で揺れている瞳が一瞬、下を向く。


「でも、だとしたらあんたのその罪を、私にも半分、分けてよ」

「え……?」


 戻ってきた瞳を私はしっかりと掴む。

 そして、私とルカの間にぽつんと置いてあった彼の左手の上から、自分の手を重ねて置く。

 その手はやっぱり少し冷たい。


「ルカはもう一人じゃない。あんたの幸せの半分は、私の幸せだし、痛みだって私の痛みよ。それならあんたの罪も半分、私がもらう」

「…………」

「私は、神様にはなれないけど。でも、あんたが迷いそうになったら、その背中を蹴り飛ばしてやることはできるわ」


 瞬きをするほんの短い間。

 私をじっと見つめていたルカが、不意に笑った。

 それは困ったような、泣きそうな表情だった。


「ほんと、マリアって」

「なによ」


 金糸が緩く、「いや」頭を左右に振る。


「それじゃあ僕は、無敵だね」


 その瞳にはもう、迷いがなかった。


「今頃気がついたの?」


 ルカがクスクスと笑いながら、指を絡めてきた。


「私にできることはきっと少ないと思う。でも、あんたの敵が神様だろうと、一緒にぶん殴ってやるわよ」

「ははは。心強いな」


 晴れた空色が、人工太陽の明かりを受けてきらきらと輝いて見える。


「ありがとう、マリア」


 それがとても綺麗だな。と、見つめ返していれば、ふと優しい音が世界に落ちた。


「僕と出会ってくれて、ありがとう」


 飾りけのない素直な言葉。

 だけどそれは胸の奥をぎゅっと掴み、甘くて苦しい。

 絡めた指に力を込めた。


「私もよ。ありがとう、ルカ」


 この世界にいったいどれだけの人たちが生きているのかは分からない。

 今までは、自分のことで精一杯。他の人たちの──────ましてや幸せなど考える余裕もほとんどなかった。

 だけど、今は心から思う。

 ルカを幸せにしたい。

 彼を傷つけるものすべてから守ってあげたい。

 あの日、あの夜。

 出会いはきっと最悪だった。

 だけど、空にいちばん近い場所から落ちてきたのがルカで、本当によかった。

 問題はまだまだ山積みだ。

 平穏な日常は遠いだろう。

 でも、ルカと一緒なら何も怖くはない。



 第一部 完








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