思惑
挨拶でもするような軽い音に、けれど私の心はざわついた。
「スラムに?」
「そう。使徒に仕事を振ってるハゲ……男がいてさ。そいつを吐かせたんだ。実験のことは何も知らない感じがしたけど、僕が気になってるヤツが今夜、スラムに行くって教えてもらった。だから行ってくるよ」
自分の足元へ視線を落とす。
ワンピースと同じ白いパンプスが視界に映り込む。足首に巻きつくような、細いストラップのついたそれも、ルカが昨日プレゼントしてくれたものだ。
きっと反対されるだろうな。
今から私が言おうとしていることは。
それでも、と。
顔をあげて正面を向く。
ちょうど間にソファーを挟む形で。
ルカを見据える。
「だったら私も行く」
「え?」
思った通り。一瞬、金糸の隙間から覗く眉が少しだけ歪んだ。
「マリア」
窘めるみたいな声音が私を呼ぶ。だけど構わず食い下がる。
「絶対、邪魔にはならない。私は夜目がきくから、遠くからでもその人の顔を確認できると思う。顔を見ればその人が私を拉致したヤツだってすぐに分かるわ」
「…………」
ずっと難色を示していた空色は、何か考え込むような様子でそっと視線を逸らした。
それを追いかける。
「それに、私も会いたい人がいるの」
戻ってきた瞳をしっかりと捕まえる。
だけどふと、あることが脳裏を過ぎり、はっとした。
「あ、でも二人分のチケットが必要よね?」
そうなるとまたお金がかかる。
一枚、用意するだけでも莫大な費用だ。それが二人分ともなれば途方に暮れる額になる。
さすがにこれ以上、金銭的な面でもルカに頼るのは気が引ける。
やっぱりスラムには、自分で稼げるようになってから戻るしかない。
「ごめんなさい。今言ったことは忘れて」
「忘れない」
外しかけた視線を、今度は逆に捕えられた。
するとルカが軽く息を吐き、肩を竦める。
「まったく。おねだりが上手くて困るよ」
「おねだりって、そんなつもりじゃない」
「分かってる」
諦めたような、困ったような。きっとどっちも混ざった音で小さく笑ったあと。
「いいよ。一緒に行こう」
「でも、」
「確かにマリアの言う通りだ。そいつが素直に吐くとは限らないし、顔を知ってるあんたに見てもらったほうが早い」
それに、と。
ルカが言葉を続ける。
「僕たち教会の人間は、チケットがなくてもゲートを通れるんだ。奉仕活動の一環として認められているから、どこでも自由に行けるのさ」
「そうなの?」
はじめて知った事実に目を丸くする私を見て、ルカが柔く微笑んでいる。
「だけど、それでも私の分がいるじゃない」
「そうだね。それじゃあその一枚は、昨夜のお礼に受け取ってよ」
「お礼?」
いったい何のことかと首を傾げてしまう。
そうしたらルカは天を仰ぎ見て、まるで一人言を呟くみたいにして言葉を並べていった。
「昨夜は抱き枕がよかったから、久しぶりによく眠れたんだ。夢も見なかったし。でも待てよ。誰かさんがずっと僕のことを離してくれなかったし、僕もいい抱き枕になれてたってことか」
「なっ!」
何を言うのかと思ったらこのクソガキ!
確かに昨夜は互いに抱き合って眠った。
まるで子どもみたいに胸元へ顔を埋めてきたルカを、私は愛おしい気持ちがいっぱいで、抱き締めて眠った。
そのときの体温や匂いをまざまざと思いだし、途端、体の中が熱を蓄えはじめる。
「こっちは真剣に言ってるのに!」
すぐそうやってからかうんだから。
顔を背ける私の鼓膜に、クスクスと笑う声があたる。
「ごめん。怒らないで」
そう言いながらも、その声は笑っていて。
「でもさ、」
ぴたりと止んだ笑い声。
今度はいったい何を言うつもりなのか。
正面へ戻した視線で、睨んでやる。
すると、ルカはとても綺麗に笑った。
「僕はいつだってマリアの夢を応援しているし、味方でいるよ。それだけは覚えておいて」
「…………」
「会いたい人がいるなら一緒に行こう。チケットは昨夜のお礼だから、気にせずにもらってよ」
「ルカ……」
本当に。
人の心を弄ぶずるいヤツ。
だけど誰よりも優しくて、彼の温かい気持ちが私の胸のなかを満たしていく。
包み込んでくれるようだ。
いったいどれだけの優しさをもらったか分からない。
私はそれをちゃんと返せるんだろうか。
いや、返していかなくちゃ。
「ありがとう、ルカ」
胸がいっぱいで、言葉が詰まる私を見て。
ルカが柔く微笑んだ。
白い明かりのなかでは一層、清廉なものに映る。




