首輪
真っ白な光へ向かって歩いていく。
手放してしまったら、もう二度と手には入らないかもしれない、まさに夢のような光景だ。
その眩さを噛み締めるよう、ゆっくり、ゆっくりと歩く。
そのたび、辺りにはカツ、カツ、と。
ハイヒールの音だけが鳴り渡る。
マイク前まで進んだところで一度、両目を閉じた。
浅い呼吸には緊張と、決意が混じっている。
客席をぐるりと見渡してみる。
昨日とは空気が違う。
肌で感じる視線たちはどれも熱く、期待で満ち満ちているのがここからでもはっきりと分かる。
限界まで高ぶった緊張感。
それは指先で触れたらすぐに割れそうなほどだ。
ピアノが歌いだした。
演奏する人が違えば、響く音もまったく違う。
昨日の夜は、愛を囁くような繊細なものだったけれど、今日は力強いラブソングみたいだ。
届かない想いを必死に叫ぶみたいな。
だから、両手をいっぱい伸ばした。
この世界でいちばん大切な人へ。
いちばん、大好きだと思える人へ。
マリアが本当は届けたかったはずの気持ちを、メロディに乗せていく。
すると不意に、脳裏を過ぎる人があった。
舞台の照明がシャンデリアに反射し、いっそう眩い世界のなかで、それは金色に見えてくるのだ。
そうしたら私の心臓は強く掴まれたみたいに苦しくなって、ぽたぽたと痛い愛しさが溢れ落ちてくる。
それが喉につかえ、絞りだした声が震えてしまう。
──────もう、決めた。
密かに決意していたことを、また決意する。
そしたら鍵がはまったみたいに、心が軽くなった気がする。
歌が終わったあと。
メロディの余韻はまだ、空気に残っていた。
徐々に消えていく、その間も待てないというように。
「ヴラーバァ!!!!」
たぶんきっと、昨日の夜と同じ人だ。
男性が叫ぶと途端、一斉に拍手が巻き起こる。
客席を立った人たち。
そのなかには目元を拭っている人の姿も見えた。
拍手は鳴り止まない。
いつまでも鳴り続ける。
私は腰を落とし、頭を下げた。
それから、マイクに唇を寄せる。
「みなさん、聞いてください」
声を張れば、やや遅れて拍手が止まった。
もう一度、客席を見渡してみる。
忘れないよう、この光景を刻みつけていたい。
息を吸った。
そして、吐きだす。
見えない透明な首輪を引きちぎるよう、右手で喉元を押さえる。
「私は今日を最後に、この舞台を降ります」
「え!?」悲鳴のような声が響き、やがてざわざわと、客席がどよめきたつ。
舞台袖のほうが何やら騒がしい。
それでも気にすることなく、私は言葉を続ける。
「だけど、また戻ってくるわ。今度は自分の実力だけで、この舞台に立つ。約束する。だからそのときまで待っていてね」
今度は深く頭を下げた。
それから顔をあげ、胸を張って。
舞台袖へ向かう。
足は自然と駆けだしていた。
そのとき一際、大きな拍手が起こった。
舞台袖ではリリアンヌが私を睨みつけていて、裏方の人たちがみなあたふたと走り回っている。
「どいうことですか!」
若い男性が血相を変えて駆け寄ってくる。
だけど私の足が止まることはない。
男性を無視し、衣装部屋まで走る。
急いでドレスを脱ぎ捨てると、楽屋着にも着替えることなく廊下を走り、赤いドレスに着替えた。
それは確かにニクスが用意したものだ。
だけど、首輪はもう引きちぎった。
廊下をひた走る。
早く会いたかった。
顔を見たい。
あの声で名前を呼んでほしい。
ただ、名前のない感情のまま駆けていく。
あともう少しで出口だというところで、「マリア!」硬い声が鳴り渡った。
そこではじめて足を止め、振り返れば、ニクスが立っていた。
彼は無表情でゆっくりと近づいてきて、私の前で足を止める。
「一時の迷いだというなら、今回だけは許そう。チャンスはそう何度も巡ってはこない。私の言っている意味が分かるか」
「ええ。でも、戻らない」
「規約違反だ」
「罰なら受けるわ。だけど、」
赤い瞳を睨むよう見上げて言い放つ。
「私はあんたの人形にはならない」
有名になればお金を手に入れ、ニクスから離れられるかも。と、一時でも考えた自分を殴り飛ばしたい気分だ。
「だってここは、あんたの贖罪でできた舞台だからよ。私は、マリアとは違う」
「…………」
「第二のマリア・カラスじゃない。私は私の歌で、またここへ戻ってくる」
赤い瞳がふと隠れた。
瞼を伏せ、唇に微笑を浮かべている。
「一度舞台を去った君と、また私が契約を結ぶとでも?」
「なにがなんでも結びたくなるような歌手になってやるわ! 罪悪感からじゃなくてね!」
一歩、開いた距離を詰めた。
「そのときは私の歌で殴り込みにくるから、待ってなさい!」
一瞬、戻ってきた赤が目を見開いた。
私は背中を向け、両開きの扉から外へ飛びだした。
人工太陽の明かりが射すなか。
いつものように待っている乗り物の横を通りすぎて。
私は走って、走った。




