幕間
「ふぁ」
劇場へ向かう乗り物のなか。
欠伸を咬み殺す私に気づいたのか。
電気機器の画面を指でなぞりながら、ニクスが言う。
「眠れなかったのか?」
「え? ああ、うん。そっちこそ眠れたの?」
「…………」
昨夜、私に見せた隙だらけの姿は、控えめな紫色のスーツの下に隠れ、理性で覆われている。
こちらからの質問には、ふっと笑うだけ。
完全に受け流されてしまった。
そのうえ、「そういえば」と、話題を変える。
「今朝の新聞に君のことが載っていた」
「え?」
「カペラを彩る新たな歌姫が誕生した。そう書かれていた」
「…………」
私が舞台に立ったのは昨日だ。
それがもう記事になったの?
私が?
空にいちばん近いこの場所は、スラムよりも情報の足が早いのかもしれない。
それに、どう反応すればいいのか分からなかった。
自分が歌姫として記事になっていることも信じられないけれど、どこか他人事のように感じてしまう。
だからニクスの横顔をしばらく眺めていた。
すると、不意に赤い瞳だけが向く。
「どうした。怖くなったか?」
「誰が。ただ少し驚いただけ」
正面を向き直りながら、本音は隠すよう腕を組む。
「それならいい。この程度で怖気付いてもらっては困るからな。今日から他の演者と同様、昼公演にも出てもらう」
返事はしなかった。
ただ、劇場につくまでずっと考えていた。
そして、密かにある決意を固める。
私が正面を睨みつけたまま黙っている間、ニクスが話しかけてくることはなかった。
◇
◇
劇場の空気はやっぱり独特だ。
一歩、足を踏み入れたら背筋が伸びる。
楽屋着のワンピースに着替え、他の出演者たちが昼公演の準備をしている部屋へ向かう途中、すれ違う人が「おはようございます」と、挨拶されて、面食らうほどにはまだ慣れない。
化粧の匂いが泳いでいた。
数人が楽しげにお喋りをしながら鏡の前に座り、パフを顔に叩きつけている。
ふと、身を乗りだすようにして、口紅を塗っていたリリアンヌと目が合ってしまった。
彼女は私を嫌っている。
今だって目が合った瞬間、睨まれてしまった。
また絡まれても面倒だ。
すぐに視線を逸らし、昨日ロージーから教えてもらった私専用、──────数週間前に主を失ったらしい化粧台の前へ行く。
椅子を引こうとしたとき。
「どうして今日も来るの? 大した実力もないくせに。ずうずうしい女!」
わざらとらしく吐き捨てた声が、お喋りを掻き消す。
途端、部屋のなかがしんと静まり返った。
みんな、自分は透明人間だと言わんばかりに、音を極力たてないよう、化粧を続けている。
私は溜め息を吐き、リリアンヌのほうへ向く。
そうしたら彼女は椅子から立ち上がり、カツカツとヒールを鳴らして目の前に立った。
胸を張り、少しでも私を見下ろしたいのか。顎をあげる。
そうしたところで大して身長も変わらないのに。
わずかに目線が上がっただけ。
「今日もニクス様と一緒に来たの?」
濡れた唇が毒を吐く。
「……だったらなによ」
「はっ。いったい何様なのよ、アンタ。まさかとは思うけど、あの人の女じゃないでしょうね?」
「なんでそうなるの」
「だって! そうじゃなきゃアンタみたいな女が舞台に立てるわけないじゃない!」
キンキンとした声を張り上げるリリアンヌを前に、呆れてしまう。
「だからあんなに目をかけてもらってるんでしょう? ねぇ、どうなのよ!」
一歩、詰め寄ってくる彼女を、私は少しも下がらず真正面から見据える。
「そんなに自信がないの?」
「なんですって?」
リリアンヌの前髪から透けて見える眉が、片方ぴくりとあがった。
「だから私が怖いの?」
一歩も引いてやるもんか。
目の前の顔が徐々に赤くなって。
唇をきつく噛む。
パチン!
と、頬を打たれる音が鳴った。
「リリィ! 顔は駄目よ!」
それまで透明人間を演じていたロージーが、慌てて駆け寄り、リリアンヌの腕を掴む。
昨日あれだけ親切にしてくれたのに。
ロージーの言葉や態度には違和感を感じてしまう。
褐色の瞳は、私から視線を外さなかった。
「だって!」
私を見たまま声をあげる。
「ごめんなさい、マリア。ニクス様には言わないであげて」
ロージーが懇願するような視線を寄越してくる。
私はまた息を吐いた。
「どうして私が。言うわけないでしょ」
こんなことをいちいち報告する義務もないんだから。
私の言葉を聞き、ほっとしたような顔をしたのはロージーのほうで、彼女はリリアンヌの手を引いて部屋からでて行ってしまった。
リリアンヌは廊下いっぱいに響き渡る声量で、「離して! どうしてアタシが!」叫び続けている。
今度は腹の底から溜め息がでた。
今のでどっと疲れてしまった。
椅子を引き、鏡の前に座る。
そこに映っている自分の顔は、ひどいものだ。
もちろん、昨夜あまり眠れなかったことも原因。
だけどそれよりも、ちっとも楽しそうじゃない。
憧れの舞台にまた立てるというのに。
鏡のなかの私は、早くそこからだして欲しそうに、私を見つめ続けている。




