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過去

 屋敷へ戻ってきたときには、日づけが跨いでいた。

 ルカの元を去ってすぐ。

 満たされていたはずの心が急激に冷えていくのが分かる。

 マリア・カラスが日記に書いていた。

 ここへ帰ってくると途端、心が空っぽになる。という心情が、今なら理解できる。

 体のなかに空洞ができたみたい。

 それでいて、窮屈な感じ。

 その妙な違和感を引きずりながら、暖色の明かりが色づく廊下を歩いていて。

 ふと、いつも朝食を食べている部屋だけが暗いことに気づいた。

 よく聞けば音楽が鳴っている。

 もう聞き慣れた歌だ。

 マリア・カラスの歌。

 さっき劇場で歌った、マリアの最初で最後のラブソング。

 恐る恐る部屋のなかを覗き込んでみた。

 すると、窓から差し込む人工の白い明かりが、薄らとその人を包み込んでいる。

 テーブルの端。いつもの席。

 一人きりで椅子に座り、ジャッケトを脱いだ背中を向けているのはもちろんニクスだ。

 側ではレコードが鳴っている。

 帰っていたんだ……

 こんなときに発揮する、スラムで身につけた力は、夜が隠そうとするその姿を、入口からでもはっきりと映す。

 ぽつんと一人でいる背中を見ていて。

 ふと、ルカの言葉を思いだした。

 母親が死んだとき、ルカよりも悲しんでいた。そう語っていた彼の言葉を。

 ……いや。

 だからなんだと言うの。

 私には関係ない。

 足を踏みだそうと、体の向きを変えようとしたとき。

 ふっと、ニクスが振り返った。

 夜のなかで視線がかち合う。

 いつも綺麗に整えられている髪は少し乱れ、ネクタイが緩められている。

 その隙だらけの姿が一瞬、ルカと重なった。


「……帰ったのか」


 いつもは硬い声が、どこかほっとしたように呟く。


「君も一緒に飲むか?」


 そう言って、ニクスが持っていたグラスを見せて揺らす。


「兄弟揃って……」


 つい、溢さずにはいられなかった。


「すまない。よく聞こえなかった。今、何と言った?」

「早く寝たほうがいいって言った」


 ほんの少しの間があったあと。

 ニクスがおかしそうに吹きだす。

 そうしておもろに立ち上がった長身が、グラスをテーブルに置く。

 ゆっくりと近づいてきた体は、入口のドアへ頭を預けるようにして立ち、私を見下ろしてくる。

 その暗い赤を睨む。

 と、彼は鼻だけでふふっと笑った。


「君は本当に……」

「本当に、なによ」

「いや」


 赤い髪が左右に緩く振って。


「昔、弟が飼っていた猫によく似ているな」

「は? また猫?」

「それに──────」


 眉を顰める私を見て、わずかに笑んだまま。

 ニクスが右手で私の前髪を。

 指先でなぞるよう、掻き分けた。


「母にも」

「…………」

「だが、君が彼女やあの猫に似ているなら、君も俺を捨てる気だろう」


 瞳がじっと落ちてくる。

 まるで、私の奥に隠れた本音を探るみたいに、じっと。


「くだらないわね」


 乾いた笑いを吐き捨て、視線を逸らす。


「少し酔ってるんじゃない? やっぱり早く寝た方がいいわよ」


 そう言いながら逃れようと、また体の向きを変え、一歩踏みだしたときだった。

 体温の高い手が私の手首を掴んだ。

 体はもう横を向いていたから、そのままで。

「なにするのよ」と。

 そう言ってやろうと口を開きかける。

 だけどそれよりも早く、声が落ちてきた。


「俺を置いて行かないでくれ」


 右手の手首を掴む手が、震えている。


「置いていかれるのはもう嫌だ」

「…………」


 何も、言えなかった。

 言葉を飲み込み、それきり。

 沈黙を、マリアの歌が埋めていく。


「なら、」


 私は溢した。

 だけど力強く赤色を見つめ返して。


「そう思うなら、バカげたことからは手を引いたほうがいい。それであんたの罪が消えるわけじゃないけど、聞き分けのいい子どもでいる必要なんてない。そんなことをしなくても、あんたを愛してくれる人はきっといるはずよ」

「…………」


 なにが。とは言わなかった。

 ニクスもなにが。とは聞かない。

 ただしばらく黙ったままでいたあと、不意に笑う。

 そして熱が離れた。


「忘れてくれ」


 言いながら背中を向ける。

 その声音はいつもの理性を取り戻していた。


「おやすみ、マリア」


 言葉とは反対に冷えた温度。

 それはまるで、決別を含んだ響きをもって、静かに落ちた。



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