余韻
「この匂い、ほんとに懐かしいな」
それまで楽しげに笑っていた声が、しみじみと言う。
「僕の母様も歌手だったんだ」
「知ってる。マリア・カラスでしょう?」
頭がゆっくり持ち上がり、私を下から見上げてくる。
「兄さんから聞いたの?」
「うん」
「それで、あんたも舞台に立ったのか」
「……そうね」
真っ直ぐ空色の瞳を見ていることができず、横に逸らす。
ルカはそんな私を、黙って見つめていた。
夢が叶ってよかったじゃないか。
彼は決して、安い気休めを口にしない。
そして、ニクスの言われるがまま舞台に立った私を責めもしなかった。
ただ、ぽつりぽつりと、むかし話をはじめただけ。
「兄さんは、やっぱり父様に似てるんだな」
逸らした視線をゆっくり戻す。
「昔、うちで猫を飼ってたんだ。母様が死んだあと、僕が拾った」
その話を聞き、意外に思う。
見るものすべてが観賞するために作られたような街なのに。猫が捨てられているなんて。
「兄さんはあまり興味がなそうにしてたけど、本当は僕よりも可愛がっていたのを知ってる。でも、兄さんには全然、懐かなかった」
私を見て、猫を飼っているような気分になる。そう言っていたニクスを思いだす。
「高価な玩具を買い与えて、エサも毎日自分でやってた。ほんと、僕より世話をしてたんだ」
「そう」
「だけど、逃げだした」
「え? 逃げたの?」
「うん。ちょうど兄さんが抱き上げようとしたとき、暴れて窓から逃げだした。僕も見てたからね」
「…………」
「兄さんや父様は、大事にしたいものには何でも与える。そうすることで、相手から気持ちを返してもらえると本気で思ってる」
途端、不安げな色が宿る。
「もしかしたら兄さんは、マリアに母様を重ねているのかもしれない。母様が死んだときは、僕も悲しかったけど、兄さんはもっと悲しんでた。だから、あの人には気をつけてね」
「うん。分かった」
少しでも不安を取り除きたくて。
私も真剣に返事をする。
だけど、つい本音も洩れてしまうのだ。
「私がこのまま大人しくしてると思うの?」
一瞬、見開いた目が、だけど呆れたように息を吐き、肩を落とす。
「それが心配なんだよ」
しばらく項垂れていて。
不意に、「それよりもさ」ルカが次に顔を上げたときには、ニヤリとした意地の悪さが貼りつけられていた。
嫌な予感がする。
「僕の膝はそんなに座り心地がいい?」
「っ!!」
そう言われてはっと気づく。
それから後ろへ飛び退いた。
「ち、違う!」
「ええ? ずっと座ってればいいのに」
そう言いながら、少し首を傾げるその表情は、完全に私を煽っている。
「ふざけないでよ、このクソガキ!」
「今日は泊まっていく? もう夜も遅いし」
煽っておきながら、こちらの反応は受け流して。
「僕の抱き枕になってほしいな」
隙を見ては甘えたような声音でからかってくる。
本当にタチが悪い!
気をつけないといけないのは、他にもいるじゃない。
「うるさい! 調子にのらないで!」
私は急いでベットから下り、「帰る!」そのままドアのほうへ向かって歩く。
「素直じゃないなぁ」
背後で楽しげに笑う声がする。
「また明日。おやすみ」
柔らかなその声を最後に、ドアを閉じた。
廊下に敷かれた絨毯を踏む足取りは、一歩一歩に熱がこもったように熱い。
変な気分だった。
だって、こんなにも心が満たされている。
そんな自分にひどく戸惑ってしまう。
これはたぶん、きっと。
中和剤のせいかもしれない。




