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 スラムにいたときには見えなかったし、ここに来てからは空を見上げる余裕すらなかった。

 それに、考えたことすらない。

 あのレプリカのお星様が、ホログラムの空にぶら下がっている意味を。

 まさか人の手で縫いつけられたものだったなんて、思いもしなかった。

 あの一つ一つを星縫いが……

 マリア・カラスがきっと最後まで愛した人。

 そして、もしかしたら。

 私の父親かもしれない人。


「…………」


 座ったまま体を半分捻るようにして、後ろを振り向く。

 テーブルの上にはお酒のボトルが一本。それからグラスが置いてある。

 透明なそれは空っぽだったけれど、ボトルにはまだ半分、茶色の液体が残っている。

 両膝を使い移動し、丸びを帯びたそれを手に取り度数を確認してみる。

 そこには控えめな文字で、三%と書いてあった。

 たったの三%?

 ベットの上で眠っている金糸を見やる。

 カエラムはお酒に弱いのか。

 さっきの様子を見るに、たしなむために飲んでいたようには思えない。

 たぶん、逃げたくなるほどのことがあった。

 そう考えるのがいちばんしっくりくる。

 私が傷つけてしまったことは間違いないだろうけれど。

 ボトルを置き、今度は絨毯の上に落ちたままの箱を拾いに立った。

 なんの柄も名前もない。

 ただ真っ白な煙草の箱を屈んで拾い。

 そういえば。不意に気がついた。

 今日はラジオがかかっていない。

 一度目も二度目も、三度目も。

 ここに来ると必ず鳴っていたのに。

 今思えばどれも同じ歌手だったかも。

 あれは、マリア・カラスだ。

 まさかここではじめて聞いた彼女の歌を。日記に書いてあった、最初で最後のラブソングを、私が劇場に立って歌うなんて。

 あの夜の私には想像もできないようなことばかりが起こってきた。

 囚われているんだな。

 カエラムも。

 そしてたぶん、ニクスも。

 私が顔も知らない両親を、心の底では忘れたくても忘れられないように。

 きっと二人のなかにもマリア・カラスは生きていて、よくも悪くも囚われている。

 そう考えると子どもにとっての親という存在は、呪いみたいだ。

 マリアが星縫いにかけた呪いと同じ。

 煙草を見つめながらそんなことを考えて。

 ふと、意識が逸れる。

 もしもこのままカエラムが起きなかったら。

 ただでさえ、少しおかしいのに。

 また症状がでてしまう。

 吸うにはコツがいると言っていたけれど。

 もう一度、ベッドで眠るカエラムを振り返る。

 しかたない。

 少しだけ待ってみるか。

 今だけはすべてのしがらみから解放され、静かに眠っている彼の枕元に、箱を置く。

 そうして頬に残った血の跡を、指先でなぞる。

 ただの人殺し。

 血も涙もない、人殺しだと思ってきた。

 それが今は……

 今は? なに?


「はぁ」


 この気持ちがなにか分からない。

 やっぱり症状がではじめているのかもしれない。

 ベットの側まで歩き、座る。

 それから端に両腕を乗せ、そこへ顔を埋める。

 ニクスに言われた言葉が脳裏をふと過ぎった。


「今日は君にとって記念すべき日だ」


 それは皮肉にもその通りになった。

 しんと空気が震える音だけがある。

 かすかにカエラムの寝息が鼓膜を、子守唄のように揺らしてくる。

 そのうち薄らと眠気がやってきて、少しだけ。瞼を閉じるだけ。

 と、一度、視界を真っ暗にしたとき。

 頭の上で身じろぐ気配がして、顔をあげる。

 すると金糸の隙間から瞼が薄らと開き、現れた瞳が明かりを受け止めて、まだ潤んでいるように見えた。

 はじめはぼぉっと私を見つめていたそれが、次の瞬間、はっと見開く。

 素早く上半身を起こしかけたけれど、私が緩く見上げていたせいか、彼はそのまままた、体を後ろへ倒した。

 そして、天井を見つめて呟く。


「…………見捨てられてると思った」


 どうやら記憶だけはあるらしい。

 おもむろに体を起こし、私は口を開いた。

 神様に見捨てられたんだと。そう傷ついていた、かつての子どもに。


「見捨てたくても見捨てられないわよ。だってまだ中和剤をもらってないんだしね!」


 恨めしい気持ちと、くすぐったいような、おかしな気持ちがうまく混ざり合わず。

 だから結局、怒ったような強い声音を吐きながら、そっぽを向けば、カエラムがまたゆっくりと起き上がる気配がする。


「マリア」


 いつもの生意気さはすっかり消え、ただ純粋な男の子の声が。

 不純なものなど一切ない、清廉な音が、私の名前をそっと呼ぶ。

 それが不思議と嫌じゃなかった。

 顔ごと正面へと向ける。

 するとカエラムの顔は少しだけ俯いていて、 瞳だけがちらりと上目にこちらを窺っている。


「僕の名前、本名はルカなんだ。カエラムは洗礼名」

「……うん」


 だからなに。

 いつもみたいに突っぱねることができなかった。

 ただじっと。

 彼の言葉を待っている私は、やっぱりおかしい。変だ。

 その違和感に戸惑ってしまう。

 こちらを見つめ続ける視線に耐えきれず、そっと外したとき。


「あんたには、ルカって呼んでほしい」

「っ!」


 甘えるような、柔らかい声音だった。

 それが鼓膜にだけ直撃し、顔面に熱がぶわっと集中して熱い。

 本当に、どうしてしまったんだろう。私。


「マリアの声で聞きたいんだ」


 心臓が信じられないほど大きな音をたて、体を全部、内側から揺らしてくる勢いだ。

 やっぱりおかしい!

 症状がでてるのかも!

 だけど呼吸はまったく苦しくない。

 心臓も壊れそうなほどの痛みはなく、むしろどこか甘噛みされているような、きゅっとした感覚。

 なんなの?

 これは、カエラムのせいなの?

 だとしたらどうしていつもいつも、私の心を掻き乱してくるんだろう。

 なにか言い返さなきゃ。

 口を開いて、閉じる。

 潤んだ瞳がじっと静かにそのときを待っている。

 でも、なにも言葉がでてこない。

 まるで、すっかり忘れてしまったみたいだ。

 それなのに目の前のヤツは、ふっと柔く笑む。


「ルカ。ルーカ、だよ。マリア」


 教えるように。

 囁く声の裏には、いつもの意地の悪さが潜んでいる。


「っ、このっ、」

「なに?」


 期待に満ちた瞳はさっきから少しもぶれない。

 ずっと私を見つめ続けていて。


「ルカ!!」


 だったらこれでも食らえ。

 部屋に鳴り渡る自分の声。

 一瞬、きんと鳴った空気が、震えたのが分かる。

 だけど視界の先にいるルカは、驚くこともなく。

 破顔した笑顔が、確かに息の根を止めにきた。







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