仮面
あれだけ苦手だった回転扉が、今日はすんなりと通ることができた。
部屋に向かう足は、今日に限って軽く、心が体に追いつかない。
いつもの部屋の前。
プレートに書いてある番号を確認することもせず、ドアを軽く叩く。
待っているたった数秒が長く感じる。
いや、本当に長くない?
どうしたんだろう?
まさか眠ってるとか?
あまりに沈黙を貫くドアを前に、耳をあてて気配を探ろうとした。
そのとき、耳たぶに触れていた冷たい感触が消え、カチャっと小さな音をたててドアが引かれる。
そうしてふらりと現れた金糸を見て、私はぎょっと目を見張った。
だって、顔が赤い。
しかもおぼつかない様子で体をゆらゆらと揺らし、なんとかそこに立っているという感じだ。
お酒の匂いがする。
「あー、マリア。まってらよ」
呂律も回っていないし。
あれだけ駆けていた気持ちが、すっと引いていく。
冷水を浴びたように冷静さを取り戻す。
「なに考えてるの」
怒りを通り越して呆れてしまう。
なにを呑気にお酒なんか飲んでるの、こいつ。
そんな調子でちゃんと中和剤をもらえるんだろうか。
「症状がではじめたかもしれないから早くして」
早口に告げながら、カエラムを押し込むようにして部屋のなかへと踏み入る。
軽く押しただけでふらふらと脇に逸れていく修道服。
「なんか、いつもとちがうね」
それはこっちの台詞。
振り返ればカエラムが首を傾げてまじまじと見つめている。
「けしょーの匂いがする。なんか、なつかしいなぁ。この匂い」
なにがおかしいのか一人でクスクスと笑っている。
「カエラム。しっかりして」
遊んでる場合じゃない。
強い音で叩く。
が、彼は「まって、ちょっとまって」辿たどしい響きを懸命な様子で言葉にしながら私へ近づいてきて、躓く。
倒れかけた体を、けれどとっさに受け止めた。
瞬きする間くらい、金糸はじっとしていた。
自分が躓いたことにすら気づいていないんだろう。
不意にクスクスと笑い声が聞こえてきた。
私からは後頭部が見えているけれど、それがもぞもぞ動きはじめ、額を胸元に擦りつけてくる。
「ちょっと、」
まるで小さな子どもか子猫みたいだ。
あまりに無防備で無邪気。
そんな姿をはじめて見て、戸惑いのほうが勝つ。
引き離そうと両肩を掴んだ。
その拍子に据わっていない頭がコクンと後ろへ倒れ、顔が上を向く。
ちょうど私を見上げるように。
オレンジ色の明かりがあたって、緑っぽく見える瞳が潤んでいる。
とろんと溶けてしまっている、隙だらけの表情。
心臓の奥がとくん。と、私にしか聞こえないほど小さな秘密の音をたて、ぎゅっと掴んで離さない。
でも、その頬に見つけてしまった。
それを見た瞬間、心臓を捕まれていた手が離れていく。
乱雑に血を拭ったような跡。
まだほんの少し、だけど確かにこびりついている命の色。
「血がついてる」
静かに。
見たものをそのまま言葉にした。
カエラムは、ふっと鼻で笑った。
「ああ……。今日も殺したからね」
ほの暗い声音が答える。
そして頭を正面へ戻し、「それよりも、ちゅうわざい、ほしい?」一変して楽しげな音が修道服の内側へと手を突っ込む。
それから煙草の箱を取りだして、それを落とす。
絨毯の上に音もなく落ちたそれを。
私とカエラムの命を繋ぐそれを追いかけ、華奢な体がその場に屈むが、座り込んでしまう。
それから両腕を垂らしたまま、動かなくなった。
「ちょっと、大丈──────」
ぶ。
俯いて、顔を隠している金糸を覗き込んだとき、最後の言葉は形にならなかった。
彼が、泣きそうな顔をして固まっていたから。
沈黙はいつも、味方のような顔をしてやってくる。
数秒。いや、数分だったかもしれない。
言葉を失い続けていると、ぽつり。とても小さな音が落ちた。
「やっぱり僕が、わるい子だから……」
お酒のせいで響きは脆い。
だけど言葉は。無邪気さを隠し、傷ついた子どもみたいにはっきりと、言葉を吐きだしていく。
「あのときだって神様に祈ったのに。はやく母様が、元気になりますようにって、必死に祈ったのに。でも、ダメだった。僕が父様の言いつけを破って母様の部屋に忍びこんだりしたから、神様は僕を見捨てたんだ。父様だってそう言ってた。だから使徒になれって。そうすればもういちど神様に愛される。母様もまた戻ってくるって。だから僕は、…………」
消え入りそうなそれは、懺悔のようだった。
震えて、今にも壊れてしまいそうな。
「カエラム」
だから壊してしまわないよう、そっと名前を呼ぶ。
私が傷つけてしまったのかもしれない。
私が、「あんたの神様はあんたを裏切ってるよ」そう言ったから。
その両腕で彼を抱きしめることは、罪深いことなのかもしれない。
それでもそうせずにはいられなかった。
ふわりと両腕で包み込むように、体に触れた。
そうしたら、固まっていた体から力が抜け、こちらへ大人しく体重を預けてくる。
甘い香りがする頭を顎で挟むみたいにして受け止め、右手で、とん、とん。と。
小さな背中を叩く。
どれくらいそうしていたかは分からない。
気づけばカエラムは眠っていた。
「…………」
ただの生意気なクソガキ。
教会のクソ野郎。
今までずっとそう思って、……いや、そう思い込むことで私は私の心を守ってきた。
でも、傷のない人間はいないのかもしれない。
私が呪ってきたお金持ちも。
もしかしたら、顔も知らないママやパパでさえも。
目に見えない神様に祈った夜が、あったのかもしれない。
小柄な体は見た目通り軽かった。
特別、鍛えているわけではない。肺活量を鍛えるために軽く運動しているだけの私でも、両手で抱えられるほど軽かった。
静かに眠っている顔は、どこか幼く見える。
マリアが日記に書いていた。
お星様を縫って、部屋にこっそり忍び込んでいた小さな天使。
長い睫毛が光って見える。
慎重にベッドまで運び終わって、はじめて息を吐く。
ふと見上げた先では、宝石の夜が輝いている。
いつもはその光景だけを、目に焼きつけていた。
だけど今日は、ホログラムの空を凝視する。
そこには確かに、薄らと光を帯びるレプリカのお星様があった。




