潜む心
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音だけがゆっくりと舞台に響く。
一歩ずつ踏みしめるみたいに。
そうして辿りついた、マイクの前。
正面を向く。
一瞬、眩く白い光に襲われ目を細める。
刺すような痛みに、だけどなんとか堪えて開いた視界の先──────
そこには客席を埋め尽くす人、人、人。
人生でこれだけの人間を目の当たりにしたことは、もちろんない。
これだけの視線を浴びたことも、だ。
誰もが期待を込めた、あるいは疑心の視線を私に……私だけに注いでいる。
その光景は、圧迫感さえ感じるほどだ。
強い気持ちを保っていなければ、今すぐにでも足が逃げだしてしまうほど。
ピアノが静かに歌いはじめた。
それを追うように他の楽器が重なっていく。
それはやがて一つの大きな音になって、一瞬で儚く美しい世界を作りだす。
すぅっと。
小さく息を吸う音がマイクに乗った。
そして私の声が。歌が。
静かに囁くよう響きだした。
叶えたい夢と引き換えに置いてきた、本当の心。
たった一人の大好きだった人。
私にはそんな風に思える人はいない。
だけどあの部屋に閉じ込められてもなお、彼のことを必死に思い続けていた気持ちは、カエラムやニクスにとっては裏切りかもしれない。
それでも呪いのようなマリアの想いが、歌詞やメロディから体のなかを駆け巡っていく。
心が震えてしかたがない。
胸の奥、私がまだ知らない奥のほうが切なくて、どうしようもない。
そうして眩い光のなか。
金糸が見えた気がした。
それを掴もうと右手を伸ばし、声が続く限り彼を、金糸を、求めた。
歌が終わったと同時。
右目から溢れた涙が頬を伝う。
音の余韻がだんだん引いていく。
誰も。
なんの歓声もない。
ただしんと静寂が残っただけ。
そんな舞台の上で、私は両手を胸の前で握り合わせ、呼吸を整えていた。
もう、これが最初で最後でもいいや。
そう素直に思えるほど、私の全部で歌いきった。
心から言える。
体を舞台袖のほうへ向けた。
そのときだった。
「ヴラーヴァーー!!!」
男性の大きな叫び声に足が止まる。
客席のほうへ顔を向けると、途端、拍手と歓声が巻き起こる。
その圧がぶわっと私を襲い、一歩、後ずさってしまった。
周囲をぐるりと見渡す。
客席では立ち上がって拍手を送ってくれる人の姿が、こちら側からでもはっきりと見える。
瞬間、足元から駆け上がってくる熱。
それが心臓を叩き、五感のすべてを刺激していく。
込み上げてくる涙が抑えきれなかった。
姿勢を低くし、頭を下げた。
そのときぽたぽたと、舞台の上に水滴が落ちる。
歓声は、私が舞台袖に消えても鳴り止まず。
「凄いわ、マリア! さすがニクス様にスカウトされただけはあるわね!」
次の出番を待っていたロージーが、すれ違いざま、私の背中を優しく撫でてくれる。
「ありがとう」
そう伝えたかったけれど、舞台に立つときよりも震えている唇ではうまく言葉にできなかった。
そのまま部屋に駆け込み、急いで衣装を脱ぐ。
白いレースのワンピースに着替え、また廊下を急いだ。
もしかしたら症状がではじめているのかもしれない。
さっきから感情がぐちゃぐちゃ。
うまく整理できない。
だから一刻も早く、カエラムの元へ行かなきゃ。早く、早く。
廊下を早足で歩いて。
不意に、壁にもたれて腕を組んでいる赤髪が、視界に飛び込んできた。
足を止めるつもりはなかったが、彼がゆっくりと近づいてきたので自然と止まる。
赤い瞳は満足気に見下ろしてきて。
「完璧なパフォーマンスだった。まだ誰も知らない君の名前は、きっと伝説になるはずだ」
「…………」
どうしてなんだろう。
体は興奮で震え、耳鳴りのようにあの歓声や拍手が鼓膜にこびり付いて離れないのに。
どうしてニクスの言葉はこんなにも刺さらないのか。
ちっとも嬉しいと感じないんだろう。
私は何も答えず、その場を去った。
やっぱり早くカエラムに会わなくちゃ。
焦りにも似た気持ちでいつもの赤いドレスに着替え、逃げるように劇場から飛びだした。
すると外には見計らっていたかのように、見慣れた黒塗りの乗り物が。
辺りの店を照らす光、行き来する乗り物のライト。
宝石の夜のなか、ひっそりと息を殺してそこにいた。
待っていたというふうに、ひとりでに開く後部座席のドア。
吸い込まれるみたいに乗り込む。
すると乗り物は、行き先は言わずとも動きだした。




