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契約

 右手で持ったそれは軽いのに。

 途端、ずしりとした重さを感じ、手が震えだす。

 手から滑り落ちた日記が絨毯の上で、自分はここだと開いている。

 一メートルほどの距離からでも、そこだけはっきりと見える。


『マリア』


 それをしばらく、瞬きさえ忘れて凝視して。

 一度、深呼吸する。

 それから屈んで日記を拾いなおし、考える。

 この日記にたびたび登場する彼が、星縫いのことだろうか。

 衛兵にこっそりゲートを通してもらっていた。と、書いてあったから、彼もスラムの住人だったんだろう。

 マリアは彼のことが好きで、結婚してもずっと忘れられなかったんだ。

 そして、あの人というのは、マリアの夫。

 カエラムやニクスの父親だろう。

 夫はマリアを愛するあまり、彼に嫉妬して、マリアをこの部屋に閉じ込めた。

 だけどそれよりも、私が気になるのは星縫いだ。

 彼が連れていた子どもの名前がマリア?

 いや、まだ私のことだって決まったわけじゃない。

 日記には肝心の日づけが書いていないから、いつのことか分からない。

 だから私じゃない他のマリアのことかもしれない。

 私は、私以外のマリアを知らないし、スラムで生きていくのにそんな名前をつける親はいない。

 と、さんざん馬鹿にされてきたけれど。

 でもその星縫いが、顔も知らない、ずっと恨み続けてきたパパだと決めつけるのは早い。

 それでも一度、芽生えた疑念はそう簡単に消えてくれず。

 日記を読み続けた。

 ◇

 ◇

 昨日はあれから何度も日記を読み返していた。

 夕食も断り、夜はよく眠れなかった。

 星縫いが連れていたマリア。

 それがどうしても気になって、頭から離れない。

 朝食はいつも一人。

 縦に長いテーブルの端に座り、焼きたてのパンやスープ。色が鮮やかなサラダに紅茶。

 それをただ黙々と口に運ぶ。

 その間も、頭のなかでは日記がめくられ続けている。

 部屋のなかには黒服を着た男性に、女性が三人もいて、それぞれ部屋の隅で立っている。

 紅茶が減ればポットを持ってきて、パンがなくなれば皿に置いていく。

 私だけが一人食べている空間は落ち着かない。

 でも今朝は、そんなことも気にならないくらい、意識は別のことに囚われている。

 夕食を抜いたから。

 もうパンを何個おかわりしたかも分からない。

 丸くてふわふわで、少しだけ甘い。

 パンをちぎっては口のなかへ放り込んで。

 いつの間にかまた増えていたスープを見つめ続けていたら、空気が動いた。

 それに気づいてはっと意識を掬いあげる。


「たくましくて結構だ」


 いつもは理性的な響きが、けれど今朝はどこか弱々しく虚ろ。

 声がしたほうへ顔を向けるよりも早く。

 茶色のスーツを着た腕が、私の左側からすっと伸びてきて、テーブルの上に一枚の紙を置いてきた。

 そこには印字された文字がびっしりと書かれている。


「契約書だ」


 これはなにかと尋ねるより先に、虚ろな声が答えた。

 そしておもむろに、私と向かい合う形で端に腰を下ろす。

 椅子を引く男性とは別の男性がやってきて、ニクスの前に紅茶を注いだカップと皿だけを置いて下がる。

 身なりこそいつも通りに整えられているが、紅茶を静かに一口飲む姿は普段より隙があるように思える。

 そして私は目を疑った。

 だってあのニクスが小さく欠伸をしたのだから。


「失礼」


 気まずいのかなんなのか。彼は目線を合わせようとしない。

 気だるげな吐息を洩らす。

 この人もしかして、朝が弱い?

 だからいつも朝食には現れなかったの?

 まさかの弱点に少しだけ人間らしさを感じてしまう。


「目を通したらサインを。そうすれば君はもう、劇場専属の歌手だ」


 閉じた両目を長い指先で軽く揉みながら、やっぱりいつもより呂律が甘い響きをもって言う。

 黒のワンピースに白いエプロン姿の女性が、羽のついたペンとインクを持ってきた。

 紙にさっと目を通す。

 そこには確かに私と契約を結ぶ文字が並んでいる。

 他にも、劇場の許可なく路上や他の劇場などでの歌唱を禁じること、指示された演目や日程、時間を厳守すること。

 体調管理は自己責任とすること。自己都合での休演は認めないこと。

 報酬は一定期間、保証されるが、それ以後は歩合制であること。

 その条件がいいのか悪いのか。

 スラムで歌っていた私にはよく分からない。

 店では自由にやらせてもらっていたし、契約書なんて交わしたこともない。

 私は、躊躇っていた。

 サインしてしまえば後には引けなくなる。

 本当にそれでいいの?

 紙を見つめ続けて唇を軽く噛む。

 すると、「君が、」と。

 ぽつりと落ちた音に視線をあげる。

 赤色を嵌め込んだ瞼は、どこか重たげ。

 それがテーブルの真ん中に置いてある、色とりどりの花をぼおっと眺めて。


「君が有名になって、稼げるようになったら。そうすればここを出て、一人で暮らしていけるようになるかもしれない」


 ぽつぽつと落ちる言葉。

 赤色がゆっくりと私を見た。

 その瞬間、思わずはっとした。

 もしもそんな未来が本当にあるのだとしたら、私はニクスから離れることができる。

 面倒を見てもらわなくても、生きていける。

 自分の力で、だ。

 元より希望なんてない人生だった。

 だけど今は。

 確かにかすかな望みが見えた気がした。

 意を決して、ペンを握った。

 その先にインクをつけ、名前を書く。

 力加減が難しくてインクが滲んでしまう。


「ああ、そうだ」


 不意にニクスが何かを思いだしたように呟いた。


「弟から連絡があった。今日の昼間は予定があるから、会うのは夜になると。使徒もなかなか忙しいらしい」


 そこにはもう、冷めはじめた赤色がある。

 どうやらいつもの調子を取り戻しつつあるみたいだ。


「君の体調が良ければの話だが。どうする?」

「……大丈夫。夜でもかまわない」

「分かった」


 ニクスが紅茶を一口飲む。

 カップを皿の上に置き、口を開く。


「それなら、朝食が終わった後は劇場へ案内しよう。君には期待している」

「…………」

「君には第二のマリア・カラスになってもらいたい。その為の投資は厭わない」


──────マリア。


 ニクスがはじめて私の名前を口にした。

 それは低く、艶のある音だった。

 瞬間、目に見えない首輪がカチッと音をたて、さらにきつく首に巻きついてくるような。

 薄ら寒い感覚にぞくりと身震いしてしまう。

 それと同時に、食欲が一気に失せた。











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